意外と広い椿東(ちんとう)~長州(115) [萩の吉田松陰]

SH3B0462.jpgSH3B0462もうひとつの「吉田松陰幽囚旧宅」の説明板
SH3B0464.jpgSH3B0464庭の灯篭
SH3B0468.jpgSH3B0468落ち着いた座敷と庭
椿東(〒).jpg椿東(〒)

もうひとつの「吉田松陰幽囚旧宅」の説明板があった。
これは旧宅の縁側においてあったもので、文言も先のものより多い。
重複はあるものの、敢えてここに抜粋する。

『吉田松陰幽囚旧宅

この建物は吉田松陰の父杉百合之助(無給士、家禄26石)の旧宅である。
初め親族の瀬能吉次郎(無給士、家禄49石余)の所有であったのでかなり大きい建物であって、畳の間11室の他板の間、物置、土間がある。

茶室は明治時代の増築であるが、その他は原形をよくとどめている。

松陰は天保元年(1830)近くの東光寺山のふもと団子岩に百合之助の二男として生まれ、一家は嘉永元年(1848)松本清水口の親族高洲家に同居し、さらに嘉永6年松本新道のこの借家に移った。

百合之助は天保14年(1843)以来、百人中間兼盗賊改方という役(現在の警察署長に相当)に任せられていたが、松陰刑死後の万延元年(1860)松陰に対する監督不行届きの故を持て逼塞に処せられ、次いで退隠を命じられたので、長男梅太郎(民治)が杉家を継いだ。

松陰は安政元年(1845)野山獄で「二十一回猛士説」を書いてから、「二十一回猛士」の別号を用い、また「二十一回叢書」をまとめている。

「団子岩の杉家墓地にある墓には遺言により表に「松陰二十一回猛士墓」と刻まれ、生前四猛を実践した、すなわち脱藩東北遊歴は杉家の清水水口時代、外防建白書提出、海外渡航計画、老中間部詮勝要撃策はいづれも杉家の新道時代のことであった。』(抜粋終わり)

「四猛を実践」の意味はわからないが、孟子の教えの実践を指すのかと思ったが、その場合は「四孟」である。

「猛々しいことの4点」とは何のことだろうか。
文脈から見ると、「野山獄に入ってから四猛を実践した」と読める。

すでに述べたことだが、二十一回は「吉田」の文字を筆毎にばらして組み合わせ直したものである。
松陰自身を指す。

萩の地名で私の中に大きな混乱が生じている。

それは「椿東」という地名が指す場所が3~4km離れたところに2箇所あるからだ。
ひとつは、松陰神社境内にある松陰幽囚旧宅の所在地を萩市大字椿東と表記している。

もうひとつは地図にもはっきりと書いているが、椿東という地名が松陰神社の北方3~4kmのところ、笠山入口の半島のくびれにある。

ここも萩市椿東という。

私は松陰神社境内にある杉家旧宅というのが、笠山入口にあったものを神社境内へ移築したものと思っていた。

その前は、神社の東の山の中腹にある椎原の生誕地の家屋を下へ降ろして移築したものとばかり思っていた。

ところが、神社内にある旧宅説明を読むと旧宅は「松本新道」にあったと書いてある。

「嘉永元年(1848)松本清水口の親族高洲家に同居し、さらに嘉永6年松本新道のこの借家に移った。」とあるから、一時期は借家住まい、後に神社境内のこの借家に入ってそこで幽囚されたということになる。

前の記事に抜粋した説明文には、旧宅住所を「所在地 萩市大字椿東字新道」と書いてあるから、松本新道が椿東の中にあることになる。

ならば、笠山入口の椿東と神社周辺の椿東は同じ地区名なのであろうか。
いずれも松本川東岸になるが、南北に4kmほどの広がりを持つ広い地域を指す地名ということになる。

萩市椿東の〒は758-0011である。
これでgoogle mapを見ると、笠山入口の椿東地区と松陰神社のちょうど中間点を指している。やはり、南北に長い地名だったようだ。

萩で「椿東」といっても、いささか広うござんすということなのだろう。

文久年間に苗字を藩から許されるまでは吉田稔麿は「吉田稔丸」と称していたそうだ。
彼の紹介文の中に「松本新道」について詳しく出ていた。

『松陰神社を出て左に曲がり、そのまま神社の壁沿いを歩いて行くと、道はやや上り坂な、 くねくねとした道になります。
江戸時代には、この道を松本新道と呼んでいました。
この松本新道を少し歩くと、一般住宅の前に、石碑があります。

石碑には、吉田稔丸誕生地と書いてありますが、古い書き方では吉田稔麿と書きます。

吉田稔麿(よしだとしまる)は、 1841年(天保十二年)に生まれました。
吉田松陰とは親戚関係ではありません。

幼い頃から、近くの寺に遊びに行くと、お経を覚えるくらいの神童だったそうです。
しかし、父親は、「又書物を見るか、学問すると役目の妨げになる、止めろ」と 書物を取り上げていたそうです。

父親は、足軽の身分でした。
江戸時代の身分制度では、 いくら神童でも、士(さむらい)の家に 養子に行かない限り、藩校明倫館で学ぶことはできません。

学問が好きだった稔麿は松下村塾に入り、松陰に学びます。
吉田松陰は、もともと、身分の違いに疑問を感じていた人でした。
ですから、学びたい人は誰でも松下村塾に入れます。

稔麿の優秀さは、松下村塾門下生の中でも群を抜き、 高杉晋作・ 久坂玄瑞と、松下村塾の 三秀(さんしゅう)と言われていました。

萩藩では、幕末になると、足軽や中間の身分でも 優秀な者は士(さむらい)に昇進することができました。ただし一代限りです。

稔麿も萩藩の士(さむらい)となりましたが、 1864年(文久四年六月五日)、京都の池田屋という旅館で新選組に襲われた傷がもとで、 二十四歳の若さで亡くなりました。  

息子を亡くした母親は、「稔麿は私にやさしくしてくれました。
『母様が下駄の緒をしっかり結んで下さったから、大変歩きやすくて、長旅にも少しも疲れませんでした。』と、手紙に書いてありました。」と語っていたそうです。』
(「吉田稔丸(よしだとしまる)誕生地」より)
http://www.hagi.ne.jp/kanko/shouin_03.html

椿東地区は親孝行の子が多かった。

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