この花は「お瀧」~長州(113) [萩の吉田松陰]

SH3B0458.jpgSH3B0458吉田松陰幽囚旧宅(左にしめ縄がある部屋が幽囚部屋)
椿東2.jpg地図 萩市椿東は赤い○印(笠山の入口)、青い○は萩市中心部(城下町の東)

幽囚室は旧宅の東側にあり、目の前にしめ縄が下がっている3畳半の1室であった。

米国密航の罪で当初は萩へ強制送還され野山獄に入れられていたが、釈放され父杉百合之助預けとなり、安政2年(1855〉から数年間ここに謹慎していた。

それが玉木文之進の開いた塾から数えれば、第2期松下村塾再開となっている。

旧宅の前に板に墨書した案内板がある。
抜粋しよう。

『国指定史跡
吉田松陰幽囚の旧宅
所在地 萩市大字椿東字新道』

と、ここまで書いてきて、私は「おや?」と思った。

所在地があの椎原、松陰生誕地ではないのである。

この一連の萩城下町歴史散策記事を読んでいただいた方は思い出すだろう地名がここに出てきた。

そこで案内板の抜粋作業を一時中断し、取り急ぎ「椿東」について私が既述した2つの記事を再掲してみる。
「椿東」のフィーリングが蘇るはずである。

一つ目は、香川津二孝子の話だった。

『十代萩藩主毛利斉熙のころ、萩城下郊外の椿東分に長七という六尺(かごかき人足)が住んでおり、その子供に権蔵・利吉という兄弟がいた。

文化十二年(一八一五)、母は末の妹を生んでから病床に臥すようになった。
そこで兄弟二人は、新堀の金毘羅社(現在の円政寺境内)まで三十町(約三、三キロメートル)道程を、病気平癒の祈願のため毎日通うことになった。

しかし、その満願の日(十二月十一日)二人は折からの風雪をついて参拝したが、帰途松本川の川岸で倒れてしまった。

翌文化十三年(一八一六)、明倫館学頭山県太華は藩主斉熙の命を受け、「紀二孝子事」(右側の石碑)という文をつくって、香川津の医徳寺境内に孝子の石碑を建立した。

大正十三年(一九一四)、椿東青年会は二孝子の百年忌を営むに際して、この石碑が辺ぴなところにあり人目に触れないので、これを新川の県道北側に移建して、その傍らに「移孝子碑記」(中央の石碑)を建立した。

昭和十三年(一九三八)、二孝子が絶命した場所の松本川東岸に、「香川津二孝子絶命之処」(左側の石碑)という石碑が建立された。

その後、昭和三十九年(一九六四)には、県道が付け替えられたために再び人目につかなくなった「紀二孝子事」碑と「移孝子碑記」碑の二つは、「香川津二孝子絶命之処」碑の北側に並べて移建され、現在に至っている。』(「香川津二孝子絶命の地」より)
http://blog.goo.ne.jp/hayate0723/e/76b301a6f91d1f1b087ef8d784d14d2e

二孝子が絶命した場所は松本川東岸というから、松陰神社に近い場所である。
椎原もそのすぐそばにある。

顕彰碑は二人の孝行息子が死んだ松本川東岸付近にあるようだが、そこから3~4kmも北へ行った椿東地区に兄弟は住んでいたということだ。

金比羅社はご利益が大きいという話を兄弟は聞いて、毎日母の快癒を祈ってお百度参りをしてきたのである。
日本では美徳として扱われるほどに親孝行を実践できるひとびとが椿東に住んでいたと言えよう。

教育水準が低いと思われる駕籠かきの子でこの有様である。
儒教の教えが長い間しみこんだ人々であろう。

2つ目の椿東にかかわる記事は、「この花の 松陰を生み 志士を生む」という句碑についてだった。
私が歩いて訪ねた椎原にあった句碑とまったく同じものが椿東にあるという。

それほど「椿東」は松陰にとって大事なのかとそのとき私は感じている。

『金子と松陰の銅像は、萩市街の東郊、田床山の山裾、団子岩と呼ばれる小高い丘にある吉田松陰誕生地の裏手丘にある。

ここから下方の萩市北東にある笠山に向かうと、半島のくびれ辺りに萩越ヶ浜郵便局がある。すぐ傍には嫁泣港という変わった名の港がある。

その付近を萩市大字椿東というが、ホテルの観光案内によればそこにも「この花」の同じ句碑があるという。

『伊藤柏翠石碑(いとう はくすい)

萩市大字椿東にある伊藤柏翠石碑です。
高さ100センチメートル、幅140センチメートルの斑糲岩の石碑で表上部に句、

この花の 松陰を生み 志士を生む

が彫ってあります。

伊藤柏翠は本名を勇といい、明治44年(1911)東京浅草に生まれました。
昭和7年(1932)鎌倉にて病気治療中より句を作り始め、昭和11年(1936)高浜虚子に師事しました。
昭和56年(1981)から毎年萩に来て、萩花鳥句会を指導し、俳誌「花鳥」を主宰し発行しました。
句集「虹」「永平寺」「越前若狭」、随筆「花鳥禅」なども出版されました。

白木屋グランドホテルから車で45分の伊藤柏翠石碑を御覧に是非お越し下さいませ。』
(「白木屋グランドホテル ブログ一覧」より)
http://www.jalan.net/yad393948/blog/3.HTML

サイトの写真を見ると、先に紹介した写真SH3B0115と瓜二つの石碑である。

この案内に石は斑糲岩だと書いている。
これを「はんれいがん」と読むことは既に紹介した。

高杉晋作の草庵の前にあった石碑の説明のところで紹介している。

『萩に来て
 ふと おもへらく
      いまの世を
   救はむと起つ
      松陰は誰  』

(「吉井勇歌碑 椎原(吉田松陰誕生地)」より)   
http://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/hikidashi/takuhon/html/021.htm

『五足の靴』のひとつ、吉井勇の歌碑だ。

『五足の靴』とは明治40年(1907)み新詩社主幹の与謝野寛と木下杢太郎(本名太田正雄)、北原自秋、平野万里、吉井勇の5人が九州のキリシタン遺跡を巡った時の紀行文の題名だった。

彼らの旅の目的は天草の大江天主堂でフランス人のガルニエ神父に会うことだった。

斑糲岩は、イタリアの工芸家が呼んでいた石材名gabbroに由来することは既に述べたし、イタリアはローマカトリックの「メッカ」である。

Gabbroを岩石名としたのは1810年のフォン・ブッフであるが、明治初期にはかすり模様
から「飛白石・カスリイシ」の訳も行なわれたが、1884年〈明治17年〉に小藤文次郎が斑糲岩という難しい訳語を作った。

斑糲岩の名が歴史の表舞台に登場したのは明治17年であるが、ザビエルや織田信長の頃から石材として使われていたり、或いは製品となって日本にも輸入されていたかも知れない。

あったとしても、墓石や灯篭の石など隠れキリシタンの信仰の道具だったであろう。

萩市大字椿東にある伊藤柏翠石碑が斑糲岩でできているなら、写真を見比べる限り瓜二つの句碑である松陰生誕地の崖裏の句碑も斑糲岩となる。

「この花」はサクヤヒメの末裔ではあるが、ローマの斑糲岩に信仰を感じる人物だったようだ。

それは、言い換えると『皇室や公家の中の、江戸期であれば隠れキリシタン』である。

萩市大字椿東にある「嫁泣港」とは面白い命名である。

嫁が港で泣くのだから、異国から運ばれてきて泣く新妻なのか、日本から異国へ嫁に出すときに泣くのか、或いは最愛の夫が異国へ旅立つのを見送って泣くのか。

いずれもあった港なのだろう。

多々良氏すなわち百済の琳聖太子の後裔たちが最初に漂着した港はこういう日本海の荒波を沈める湾だったのだろう。

多々良氏は幕末にあっては大内義隆の末裔たちであり、その遺児たちは萩で環(たまき)家を名乗り、後玉木家を称したようだ。

松陰の墓のある椎原墓所の中で、一番大きく立派な五輪塔の墓は、「玉木家御祖之墓」だった。
その大きな墓を見て、正面右手が松陰生誕地で、左手に松陰の「松楓」の墓がある。

松陰は百済の琳聖太子(多々良氏)の後裔だったのではないか。』

私が書いた椿東地区の記事は、以上の2つだった。

二孝子の親孝行の姿を称え、「松陰を生み 志士を生んだ」のは「この花」であるといい、その句は斑糲岩(はんれいがん)に刻まれていた。

晋作の草庵の前で吉井勇が刻んだ「松陰は誰」の句も斑糲岩(はんれいがん)だった。

これらの記事を書いたときは、松陰が多々良氏、つまり百済の琳聖太子の後裔だったのではないかと私は感じていたようだ。

しかし、松陰生誕地と萩城下町を回ってきた今このときには、私は「この花」がひょっとして村田瀧なのではないかと思い始めている。

松陰を生み、松下村塾の青年たちの生活の世話をして育てた女性が「この花」である。

志士を生みという句碑は松陰と金子の銅像の下方に置いてあった。
志士は金子を指すのであろう。
しかし、金子は志士ではあるが、松下村塾で瀧が育てた門人ではない。

隠れキリシタン村の生まれで、元は染物屋のせがれである。

金子を松陰に引き合わせ、渡米させようとした人物が江戸にいた。
紫福村の金子こそ、米国へ行き、日米通商条約締結前にある主張を米国大統領にすべき課題を持っていたのではないだろうか。

鎌倉の村田しょういん、瑞泉寺住職竹院は、松陰と金子の双方に面識があったのかも知れない。
村田兄妹の果たした役割の大きさがじわりと伝わってくるような気がする。
それは今回の萩訪問の大きな成果であった。

私は村田瀧こそ百済の琳聖太子の後裔であり、革命政権を樹立すべく杉家へ輿入れしてきたと考えたい。

山口から亡命していった大内氏末裔は萩へ来たと書いてきた。
それも事実だろうが、同じ距離歩けば防府天満宮のある防府を経て徳山まで逃げることも可能だ。

毛利徳山藩領(現周南市、元徳山市)にも大内氏末裔が亡命してきてもおかしくはない。
その目的のために村田右中は娘も家も杉百合之助に与えたのだろう。

お瀧は徳山から萩へやってきて、萩本藩の藩士百合之助の子を産み、次男を日本軍事革命政権を作れるほどの逸材に育てたのである。

なおかつ、お瀧の兄の村田昌筠(しょういん)は、鎌倉瑞泉寺、円覚寺、京都南禅寺の住職となっている。

瑞泉寺住職のときに下田へ行く途中に相談にやってきた甥の松陰に向かって米国渡航を後押ししている。

歴史の上で村田兄妹の果たした役割はあまりにも大きい。
偶然にしてはその役割が余りにも大きすぎるのである。

それは山岡壮八も小説「吉田松陰」の中で匂わせているようだ。
私はまだそれを読んでいない。

あらかじめ仕組まれたシナリオに沿って日本史ドラマが創られている雰囲気がある。

村田瀧の百済の琳聖太子の後裔説。

これは、私が萩を2本の脛(すね)で歩きながら直感した感想に過ぎないが、私の中ではかなり重きを占める仮説となってきている。

松陰が村田清風とキリシタンを介してつながっているのではないかという当初の疑問の方は、まだ解けていない。

しかし、村田瀧こそ幕末の日本革命に重要な役割を果たした人物といえることは確かである。
瀧が縁談を拒絶すれば、長州藩の近代化も幕末の決起も起きなかっただろう。

その仮説にたてば、山岡壮八の小説を読んだ人の下記の感想文も決して大げさには聞こえないのである。

『松蔭の母は滝といい、児玉太兵衛が滝を引き取って家で召し使いとして仕事をさせているが、滝は家事万端を教えてもらっている身ともいえる立場である。

その太兵衛が苦渋の思いで滝に「百合之助のところに嫁がないか?」と話を切り出す。
それが松蔭出生のきっかけとなるから不思議なものだ。

太兵衛の決断がなければ大袈裟に言うと、今の日本の姿はなかったといっても過言ではない。
それだけ松蔭の出現は日本の歴史にとって重要な位置を占めている。』
(「山岡荘八の吉田松陰を読む。」より)
http://ameblo.jp/mytec/archive1-201009.html

二孝子は椿東の生まれであり、「この花の」の石碑が椿東にもあった。
松陰生誕地の句碑と素材も大きさも文字の形も瓜二つの句碑が、なぜか椿東にもあった。

そこは笠山への入口、嫁泣港に近い。
朝鮮半島から萩へ向かって船が来るとすれば、椿東地区の半島にある笠山は目印になるだろう。

昔、高麗から多くの交易船が日本の山陰・北陸へやってきた。
その港を「高麗船(こまぶね)の着く港」すなわち「こま津」と日本人は呼んだ。

日本各地にこま津の地名は残り、「小松市」と行政名になっているものもある。

嫁泣港は昔は『高麗津(こまつ)』だったのであろう。

ここで私のオリジナルな推理を述べよう。
独創的推理でもある。

「この花」は百済の琳聖太子の末裔の「姫」である。
それが村田瀧だったのだ。

その検証はこれからも続いていく。

この仮説にたてば、吉田松陰誕生地の椎原にあった吉井勇歌碑が言い切り形式で世に問うた答えも自明となる。

萩に来て
 ふと おもへらく
      いまの世を
   救はむと起つ
      松陰は誰 

松陰は百済の琳聖太子の末裔となるのである。

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