パリ宣教会が浦上の隠れキリシタンを発見~長州(98) [萩の吉田松陰]

SH3B0403.jpgSH3B0403毛利藩重臣熊谷豊前守元直の碑
SH3B0402.jpgSH3B0402道路向かいはヨットハーバー

『萩城の石垣築造に際して、五郎太石(石垣の間に詰める石)が盗まれるいう紛争が益田元祥と熊谷元直、天野元信の間で始まり、石垣築造工事が2ヶ月以上も遅延し、毛利輝元は非は熊谷、天野両氏にありとして、一族11人を討ち滅ぼしました。

これを五郎太石事件といい、この事件は熊谷、天野両氏がキリシタン信者であったため、この事件を口実に誅伐されたものといわれています。

宣教師ビリオンによって建てられた熊谷、天野らの殉教碑と、明治初年に萩へお預けになった長崎浦上村のキリシタン信徒が眠る墓が並び、当時の悲惨な状況を今に伝えています。担当: (萩市)観光課』
(「萩キリシタン殉教者記念公園」より)
http://www.city.hagi.lg.jp/portal/bunrui/detail.html?lif_id=10287

ここは浦上キリシタン捕囚屋敷の裏地を買い取って記念公園としたものである。
革命成功したために、鎖国令は解かれた。
そのためにイエズス会の本拠地パリ宣教会から宣教師が日本へ送り込まれ、長崎浦上村に多数の隠れキリシタンが居たことを発見し驚いている。

その後で迫害・拷問が始まったことは何とも皮肉なことである。
パリ宣教会も当時の日本事情に関する情報分析を怠っていたのではないだろうか。

ザビエル書簡やルイス・フロイスの日記を読むと、彼らが日本での重要なリスク情報を欠落させていた可能性はない。

先読みはかなり正確にしていたはずだ。
革命戦争の直後とはいえ、日本国で隠れキリシタンの存在を明らかにすれば、次に何が起きるか知らないはずはない。

あるいは、「そうなること」を読んだ上で、敢えて浦上信徒の存在を暴露し殉教させたのであろうか。

それは明治新政府との外交交渉で相当キリスト教を重んじる外国には有利に働く日本カードとなっていくはずだし、現にそうなっている。

『途中略。

萩キリシタン殉教者記念公園
鎖国が解かれるや否や来日し、禁制下で隠れて信仰を守り続けたキリシタンがいたことを「発見」したパリ宣教会。

日本は開国し、明治政府が立てられたにも関わらず、徳川期から続くキリスト教禁令を解いていませんでした。

そのため長崎で「発見」された信徒たち(多くが浦上村の者たちだった)は、処罰の対象とされ、見ず知らずの土地に流されて、そこで棄教するようにとの説諭と拷問を受けることとなりました。

浦上キリシタンの墓と記念碑
明治政府の要職につき、信徒問題の方針を定めた井上馨、木戸孝允、伊藤博文らを輩出した長州藩には、他藩より多くの信徒たちが預けられることとなりました。

明治元(1868)年に第一陣として萩に送られてきた66名の信徒は、棄教しないまま死亡した1名と逃亡した2名を除き全員改心(棄教)し、当時空き家となっていた清水屋敷に収容されました。

殉教者記念公園
しかし翌年その家族として送られてきた134名は、女子供と老人ばかりであったにも関わらず、餓死寸前の飢え、劣悪な衛生状態、寒空に裸で放置される寒晒し、鉄砲責めなどの拷問、殴る蹴るの暴力に耐え、ほとんどの者が改心しませんでした。

彼らが収容されたのが、岩国屋敷という場所でした。
広い敷地内に建物はありましたが、馬小屋に住まわされたり、光も差さない勘弁小屋に入れ、20~30日もの間食物を全く与えないということが、日常的に行われていました。

浦上キリシタンの碑
明治4(1871)年諸外国からの非難を受け、楠本正隆が実態を調査するため岩国屋敷を訪問しました。
巡察後他の地域では待遇が良くなったのに、ここではより悪くなったと証言されています。

明治5(1872)年帰村が許されると、改心していた者たち26名が早速改心を取り消し、翌年に長崎に帰るまで草鞋を作るなどの内職をしました。

明治6(1873)年、ようやく長崎に向けて出発できるようになりましたが、それまでに43名の命が失われていました。

近辺から集められたキリシタン墓
彼らの忍耐と信仰を記憶の風化に任せてはいけないと考えたパリ宣教会のビリヨン神父は、明治24(1891)年岩国屋敷の裏手にあたるこの土地を買い求め、碑を建てました。

浦上キリシタンの碑の土台には、信徒たちが寒晒しにされた庭の石が積み上げられています。

きれいに管理され、季節の花が彩りを添える公園には、江戸期に殉教した熊谷元直と天野元信の碑、この近辺から集められたキリシタン墓があり、静かな祈りのひと時をもつことができます。』(「萩キリシタン殉教者記念公園」より)
http://tenjounoao.web.fc2.com/mysite1/place/yamaguti/hagijunkyousya.html

おやおや、「信徒問題の方針を定めた井上馨、木戸孝允、伊藤博文ら」と元長州藩士の名が出てきた。

松陰の弟子の伊藤博文が浦上崩れを容認していたのだ。

堀内でキリシタンを拷問にかけたということは、毛利重臣たちとその家族に信者がいたからだろう。
そうでなければ、拷問は城下から離れた田畑や河川敷で行われるのが普通である。
会津ではそういうところで斬首されている。

井上馨、木戸孝允、伊藤博文らは土佐でいうところの郷士に相当する。
堀内地区には住めないし通行許可証がなければ夜間は通行さえできない家格の出身である。

腹いせに敢えて長州藩の堀内でキリシタン迫害をやらせたということは考えられないだろうか。

「元郷士による腹いせ」とは狭い了見ではあるが、場所が場所だけになぜ拷問の場所が堀内かという理由が思いつかない。

拷問で悲鳴を発すれば、夜であれば厚狭毛利家屋敷にも聞こえるはずだ。
それが狙いか?

厚狭毛利家といえば、宇部市の領域を差配していた殿様である。
今では宇部興産など臨海工業地帯でさまざなな産業が発達した山口県の主要都市になっている。

井上と伊藤はイギリスに留学していたから、外国でのキリスト教の捕らえ方も十分わかっていたはずだ。
彼らが新政府内部でキリシタン迫害を決定するはずがない。

おそらく彼らの上層部、天皇と岩倉の間に位置する高級公家(5摂家)の間で、キリスト教の扱いについて異論がぶつかったことだろう。

表の歴史資料には岩倉以下の行動しか記録されていないから、すべて岩倉の指図のような扱いになっている。

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