石見の大名吉見正頼の別宅跡~長州(94) [萩の吉田松陰]

SH3B0376.jpgSH3B0376海沿いを北へと曲がる
SH3B0378.jpgSH3B0378薄暗い林を抜けると公園らしきゾーン
SH3B0380.jpgSH3B0380美しすぎる公園
SH3B0379.jpgSH3B0379「石彫公園」案内図

西の浜から海沿いを真北へ歩いて「石彫公園」の入口についたようだ。
ここは殉教者の公園ではない。
指月山を含む景色が美しい。

松陰の生誕地は椎原の小高い山の途中にあった。

その敷地入口門の傍にあるシュロの木のそばから城下を見下ろすと、正面奥に見えていたあの指月山がこの公園の奥にある。

指月城は、大内義隆の実の姉が住んでいた。
石見の大名吉見正頼の別宅であった。

大内義隆の遺児は、おそらく洗礼を受けていたと思われるが、彼らはこの山の麓にあった吉見の館へ居住したのだろう。

そして「環(たまき)」姓を名乗った。
後に玉木と改めた。

松陰を激しく鍛えた松下村塾創始者の玉木文之進は、松陰の実の叔父で、玉木家へ養子に行った人物である。

必ず大内家再興を果たそうとしたのではないか。

そのためには、徳川氏を倒し、毛利氏をも無くさねばならない。

久坂玄瑞が坂本龍馬に言ったという「土佐藩も長州藩もなくなっても構わない」という言葉は、覚悟のほどを言ったのではなく、革命の目的を述べたものである。

尊王のイデオロギーは大内氏末裔にとっては必須のものであった。

偶然、指月山へ迷いこんでしまったので、ついつい松陰と大内家のことを思い出してしまった。

もう一度先ほどの「150m先を右折」の看板まで戻ることにしよう。

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