平安古の総門~長州(83) [萩の吉田松陰]

SH3B0328.jpgSH3B0328小堀を渡る(欄干に平安橋の文字)
SH3B0331.jpgSH3B0331堀の水は日本海へ続く
SH3B0332.jpgSH3B0332平安古の総門

平安古は「ひやこ」と読む。

欄干に平安橋の文字を刻んだ石の橋を渡る。
堀の水は日本海へ続いているから、ここから先の萩城は日本海に浮かぶ島ともいえよう。

幕府の艦船だったか忘れたが、敵が萩城の沖から大砲を撃つ音を晋作が自宅の座敷牢で寝転んで聞いているシーンが司馬遼太郎の小説にあった。

この距離ならば、確かに沖の艦砲射撃音は晋作の家の座敷まで聞こえるだろう。

「平安古(ひやこ)の総門」と書いた案内板が石の柱のそばにあった。

さっきの石橋には「古」の文字はなく「平安橋」だったが、ならば「ひや橋」と読むことになる。

ここからが「堀の内」、すなわち城にもっとも近い町である。

『平安古(ひやこ)の総門

総門とは、萩城三の丸(堀内)と城下町を分ける門のことで、この門は平安古(ひやこ)地区に接していることから、平安古の総門と呼ばれていた。

他に、北の総門・中の総門があり、それぞれに見張り小屋が置かれていた。

暮れ六ツ時(午後6時)から明け六ツ時(午前6時)の間は閉められ、通行手形(通行許可証)を持つものだけが、この時間の通行を許された。』(抜粋終わり)

私も瀬戸内の防府市から山口市を越えて、されらに高い山々を越えて山陰の海の町萩へとやってきたが、彼らも同じような道を通ってきたのだろう。

戦国時代末期の当時、萩にはすでに城があった。

毛利氏は陶晴隆をうまく利用して山口の大内義隆を滅ぼした。
結局陶氏も毛利氏に滅ぼされ、毛利氏は中国地方全域の王になったが、その配下となっていた人物の別宅城が萩にあった。

それは石見の国領吉見正頼で、遠くは石見を拠点としていた周布家の主君でもあったはずだ。
つまり石見の銀山の利権を毛利に抑えられた大名であった。

また吉見正頼の正室は大内義隆の実姉であった。
大内義隆の遺児が大内家崩壊のあとに萩城へと落ち延びたという説の根拠はここにある。

関が原の敗戦のあと、毛利氏は石高を1/3に減らされ、日本海に浮かぶ萩城へと移封されてきたが、そのときに萩城を出されて堀内から外へと移住した人々は周布家など石見国に縁があった吉見正頼の家臣や正室の縁者たちであった。

この総門を出て平安橋を渡って城を去る人々もいたはずだ。

彼らは主君である毛利に忠義を尽くす責務を負わされた武士たちであったが、一方で機会があれば毛利の寝首を襲う動機を持つ連中でもあった。

総門で夜間の通行者の管理に神経質になる毛利の殿様とその親戚たちの気持ちもわかる。
おちおちゆっくりと眠れるような環境ではなかったのである。

土佐は上士と郷士として身分差別していたが、長州では総門の内外、つまり堀の内か外かで居住差別により安全確保を図っていたのであろう。

これより堀の内へ入っていく。
私は藩主の寝首を掻こうという者ではない。

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MatNast

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by MatNast (2020-03-04 10:59) 

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