晋作と宣教師の出会い~長州(34) [萩の吉田松陰]



前の記事で掲載した写真『SH3B0105晋作の墓から松陰の墓と楓を見下す』を眺めている。
この角度からの眺めには、絶妙の視界が広がっている。
右手手前に一部欠けて写るやや四角い側面を持つ墓石は晋作のものである。
その晋作の位置から、楓の木の根元で丸みを帯びて光線で輝いている松陰の墓を眺めると、その頭上には楓の枝や葉が広がっている。
まるでエデンの園である。
そして、右端に、つまり松陰と晋作を結ぶ線に直角に吉田稔麿の丸みのある墓がある。
松陰と稔麿は同じ丸みのある墓石だが、晋作のそれはやや異なる。
素材と加工精度という意味では、晋作の墓石の方が高級感があるが、配置からすれば松陰と稔麿のためにわざわざ楓の木を配置したように見える。
そして、明らかに松陰と稔麿の思想信条は一致していたと私は感じている。
晋作は、私たちと同じ傍観者の立場を気取っているようだ。
ここに晋作が立った時点では、まだ晋作は松陰と稔麿の思想信条に一致していなかったのだろう。
長崎、上海への旅路が晋作の思想信条を劇的に変えている、そのように私には見える。
楓の葉が真っ赤に色づく秋11月の下旬に、もう一度この場所に立ってみたいと思う。
松陰の墓石の頭上は、まるで松陰の怒りの炎ように真っ赤に燃え上がっているはずだ。
『(松陰先生は、)嘉永7年(1854年)1月、ペリー2度目の来航の際、長州藩足軽・金子重之助とともに密航計画を企て静岡県下田に停泊中のペリーの艦隊に米国密航を希望されるが失敗、江戸の獄に下り、その後、萩の野山獄に幽囚されました。
この歌は下田から江戸に護送され、品川の泉岳寺を通り過ぎたときに作られました。
泉岳寺にねむる赤穂浪士は、自分にすなおな選択をして生きて生涯を閉じたと思います。
松陰先生は浪士たちの生涯に、わが身を重ねあわせて作られたのです。
かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂
安政2年(1855年)、生家で幽居の身となられますが、安政4年(1857年)叔父の玉木文之進が開いていた私塾・松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作を初め久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など、維新の指導者となる80名の人材を教え育てられます。』(「吉田松陰先生誕生180年に際して」より)
http://turumi-jinjya.blog.so-net.ne.jp/archive/201007-1
「已むに已まれぬ大和魂」の作用によって黒船に乗り込んだ24歳の若き松陰は、赤穂浪士の墓のある泉岳寺前を通過する際に、囚人籠の中から四十七士を偲んでこの歌を歌ったのである。
吉田松陰は赤穂浪士討ち入りの日の12月14日に合わせて、雪の東北旅行に出発した。
晋作も12月25日に功山寺挙兵をしている。
晋作の決起が討ち入りの翌日となってしまったのは、晋作の準備の不手際だったか、或いは已むに已まれぬ遅延理由があったようであるから、晋作の決心は14日につけていたはずだ。
いざとなってぐずぐずするところは、200石馬廻り役の高級武士の家に生まれた嫡男らしくて、人間味が感じられて大変面白い。
それに対して松陰の潔さは人間味が薄く、機械的でさえある。
おそらく松陰は、玉木文之進のマインドコントロール下にあったのであろう。
それはリモートコントロールという意味ではなく、3~4歳の幼児期に脳内に仕組まれたプログラムのなせる技であって、松陰自身は自分の意思だけで行動を決定したと思っていたはずである。
ところで、晋作が幼なじみの久坂玄瑞に誘われて松下村塾に入ったのは、黒船密航未遂事件の3年あとのことで、安政4年(1857年)、晋作19歳のときだった。
このとき、師の松陰は27歳になっている。
私は晋作の墓の前に今立っているから、ここからは松陰の墓石の後姿が見える。
「高杉晋作年表」とWikipedia記事より、晋作から見た師・松陰の後姿を追いかけてみよう。
http://www.eonet.ne.jp/~kazusin/cyosyu/takasugisinsaku.htm
安政5年(1858)4月7日、晋作は俗論党首魁の椋梨藤太の訪問を受けた。
この月に井伊直弼が大老に就任しており、それに呼応した椋梨の行動であろうか。
その6日後(4月13日に)、晋作は吉田松陰に対して江戸遊学希望の手紙を書いている。
なんと松下村塾生の晋作を江戸へ派遣したいと動いたのは、椋梨藤太なのである。
松陰の右腕である晋作が江戸で正しい情報を学べば、松陰の過激な行動を抑制できると椋梨が考えたのかも知れないが、或いは高杉家(馬廻り役)嫡男へ藩からの通常のお役目伝達に過ぎなかった可能性もある。
椋梨藤太は、大老に井伊直弼が就任することで何が起きるか、かなり正確に予想できていたのではないか。
私は椋梨藤太が晋作を利用したと考えたい。
長州藩にとっては劇薬である松陰を中和するため、上級武士の嫡男晋作を松下村塾へ送り込んだ老獪な椋梨藤太53歳の姿が浮かび上がってくる。
つまり晋作に命じて、川向こうの松本村まで「ミイラ取り」に行かせたのである。
若き晋作が、やがてミイラになるとも思わずにである。
その辺りの駆け引きは、松陰というよりも、大内義隆の遺児、遺臣の末裔である玉木文之進の方が、一枚も二枚も上手であったと私は思う。
その3ヵ月後(7月5日)、松陰は周布政之介(すふ まさのすけ)に晋作の江戸遊学推薦の手紙を書いている。
「晋作の江戸遊学希望」が、実は周布政之介の政敵である椋梨藤太の企みであることを松陰が知っていたかどうかはわからない。
井伊直弼大老就任の影響はその年の9月に出始めた。
老中・間部詮勝が上京して京都の志士の逮捕を始めたのである。
安政の大獄で二人目の逮捕者は、やや過激な革命煽動を好む山崎闇斎学を学んだ儒学者であったという。
しかし、これが最初の逮捕者という記事の方が多い。
『京都では梁川星厳につぐ志士の指導者となった。
さらに大老・井伊直弼の排斥などを図った。
しかし、大老・井伊直弼による安政の大獄で摘発され、二人目の逮捕者となってしまった。
(「梅田 雲浜」より)
http://blogs.yahoo.co.jp/sengokuhome50/24027800.html
では梁川星厳(やながわ せいがん)が第一番目かというと、彼は逮捕の前に死んでいる。
『美濃国安八郡曽根村(現在の岐阜県大垣市曽根町)の郷士の子に生まれる。
文化5年(1808年)に山本北山の弟子となり、同3年(1820年)に女流漢詩人・紅蘭と結婚。
紅蘭とともに全国を周遊し、江戸に戻ると玉池吟社を結成した。
梅田雲浜・頼三樹三郎・吉田松陰・橋本左内らと交流があったため、安政の大獄の捕縛対象者となったが、その直前(大量逮捕開始の3日前といわれる)にコレラにより死亡。
星巖の死に様は、詩人であることに因んで、「死に(詩に)上手」と評された。
妻・紅蘭は捕らえられて尋問を受けるが、翌安政6年(1859年)に釈放された。』
(梁川星巌(Wikipedia)より)
妻・紅蘭が捕縛の第一号というのであろうか、よくわからない。
雲浜は2番目の逮捕者とWikipedia記事に書かれていたが、多くの関連サイトでは最初の逮捕者としている。
ともかくも、雲浜は拷問に耐えて口を割らなかった。
『雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたという。
小浜藩藩士・矢部義比の次男として生まれ、藩校・順造館で学んだ。
天保元年(1830年)、藩の儒学者・山口菅山から山崎闇斎学を学び、その後、祖父の家系である梅田氏を継いだ。
小浜で学んだ知識をもって、大津に湖南塾を開いている。
天保14年(1843年)には京都へ上京して藩の塾である望楠軒の講師となる。
しかし嘉永5年(1852年)、藩主・酒井忠義に建言したのが怒りに触れて、藩籍を剥奪された。
翌年、アメリカのペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判した。
しかしそれが時の大老・井伊直弼による安政の大獄で摘発され、二人目の逮捕者となってしまった。
捕縛後は京都から江戸に送られたが、取調べでも箒尻(ほうきじり)で全身を打たれる拷問においても何一つ口を割らず、獄中で病死した。
これには、拷問での傷の悪化による死因説もある。享年45。
中略。
辞世の歌
君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり』
(梅田雲浜(Wikipedia)より)
雲浜の獄中死は、安政6年9月14日(1859年10月9日)で、脚気による病死といわれているが、毒殺説もある。
『龍馬が帰国の途につく頃、世は「安政の大獄」が始まりかけていた。
アメリカの軍艦が浦賀に現れてからの5年間に、国内に沸き起こった攘夷論と開国論は対立したまま解決されずにいたが、彦根藩主井伊直弼が大老になると、井伊はまもなく日米通商条約に調印してしまった。
それは逆に、沸騰していた攘夷論に油を注ぐ形となったが、井伊は、その挙に反対していた水戸斉昭、徳川慶勝、松平春嶽などの大名を謹慎、あるいは隠居謹慎の処分に付し、さらには梅田雲浜、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎たちを次々に逮捕・拷問するという弾圧を行った。
安政6年(1859年)になると、橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰といった英才たちがつぎつぎと死罪となる。
翌年(1860年)、一連の「安政の大獄」に憤激した水戸藩士たちは井伊大老暗殺(いわゆる桜田門外の変)を決行。
幕府の大老が一介の浪士たちに暗殺されたというその知らせは、幕府の権威が大きく揺らぐきっかけとなり、土佐藩の有志たち、そして全国の志士たちの心を大きく揺り動かすこととなった。』(「坂本龍馬の青年期」より)
http://www.shotentai.com/ryoma/ryoma-3.html
松陰は伝馬町牢屋敷でこの友人同志の訃報を聞いたのであろうか。
その年の11月4日に、晋作は江戸の昌平黌(東大の前身)に入学している。
同じ11月に萩にいる松陰は、老中間部詮勝暗殺計画を立て、血判書を作り、資金の調達を計画した。
兵学者松陰の行動は、間部詮勝による脅威の具体化にそのまま連動しており、実にすばやい。
その判断は「孫子の兵法」そのものであり、今風に言えばSWOT分析(強み弱み機会脅威分析)に基づく速やかな経営戦略転換を図ったものとも言える。
実に松陰の行動には、迷いや遅延が一切ない。
玉木文之進が、幼い頃から虎之助(松陰)を厳しすぎるほど鍛えた効果は、このあたりに現れている。
翌月(12月11日)、晋作は久坂玄瑞と連名で松陰に対し、「倒幕決起は時期尚早」の旨の手紙を書いた。
晋作は、昌平黌入学後1ヶ月で世界の情勢と日本の進むべき方向を把握したようである。
この後、晋作に遊学を許可してくれた周布政之介は、藩内政治対立の悪化から椋梨藤太と対立し、切腹へと追い込まれていく。
周布は、村田清風派であり、その延長線上に松陰も晋作もいた。
松陰も晋作の身の上にも脅威の風が吹き始めてきた。
『(周布政之介は、)来原良蔵や松島剛三らと嚶鳴社を結成し、弘化4年(1847年)に祐筆・椋梨藤太の添役として抜擢された。
周布は天保の藩政改革を行った家老の村田清風の影響を受けており、この抜擢は村田の政敵である坪井九右衛門派の椋梨との連立政権を意味していた。
財政再建や軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力し、また桂小五郎や高杉晋作ら吉田松陰の門下を中枢に登用したが相州防備の藩財政の悪化により失脚。
しかし政権を握った坪井派が京都と長州の交易を推進したことが藩内の会所において疑心暗鬼をうみサボタージュが発生して失敗したことで再び藩政に復帰。
文久2年(1862年)頃に藩論の主流となった長井雅楽の航海遠略策に藩の経済政策の責任者として同意したが、久坂玄瑞ら松下村塾の藩士らに説得され、論統一のために攘夷を唱えた。
守旧派に抗し藩政改革の起爆剤とする意図があったとされるが、ここにおいて村田派と坪井派の禅譲は終わった。
元治元年(1864年)の禁門の変や第1次長州征伐に際して事態の収拾に奔走したが、次第に椋梨ら反対派に実権を奪われることとなった。
同年9月、責任を感じて山口矢原(現・山口市幸町)にて切腹した。享年42。』
(周布政之助(Wikipedia)より)
さて、椋梨藤太が企んだ目論見は当たったようだ。
江戸へ留学した晋作は、松陰の倒幕決起は時期尚早と判断したのである。
安政6年(1859)1月11日、松陰の手元に高杉晋作、久坂玄瑞連名の手紙が届いた。
『老中間部詮勝の暗殺は自重せよ』と書いてある。
この弟子たちの優柔不断に対して、2月15日萩の松陰は江戸の晋作に手紙を書いて返事を届けている。
『忠義と申すものは鬼の留守の間に茶にして呑むようなものではなし。
江戸居の諸友、久坂、中谷、高杉なども皆僕と所見違ふなり。
其の分かれる所は、僕は忠義をするつもり、諸友は功業をなす積もり』
『君らは保身の心がある。
昼寝をしておれ。
私はやる。』
そういっているのに等しい。
安政6年(1859年)4月7日、松陰は初めて「草莽崛起」の言葉を使う。
大老井伊直弼の歴史の表舞台登場を見てから1年目、漸く舞台の反対側から松陰が立ち上がってきたような凄みを感じる。
『草莽崛起
「草莽(そうもう)」は『孟子』においては草木の間に潜む隠者を指し、転じて一般大衆を指す。
「崛起(くっき)」は一斉に立ち上がることを指す。
“在野の人よ、立ち上がれ”の意。
安政の大獄で収監される直前(安政6年(1859年)4月7日)、友人北山安世に宛てて書いた書状の中で、「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」と記して、初めて用いた。』(吉田松陰(Wikipedia)より)
そして安政6年5月、井伊直弼より長州藩に対して松陰の身柄移送の命令が下った。
『安政6年5月、幕府法廷からの呼び出しをうけ、萩・野獄から江戸へ移送される。』
(「斎藤弥九郎と幕末の長州藩」より)
http://www7.atpages.jp/yakurou/yakurou-tyousyuhan.pdf
晋作が入門して1年と1ヶ月で、師の松陰は江戸牢屋敷送りとなった。
幕府の移送命令を藩に伝えたのは、長州藩直目付の長井であった。
『長井雅楽と吉田松陰
長井の航海遠略策は、通商を行って国力を増し、やがては諸外国を圧倒すべしという論で、吉田松陰の「大攘夷」に通ずるものがあったが、両者はその実行論において対極にあった。
長井は松陰の行動主義を批判し「寅次(松陰)は破壊論者なり。国益を起こすの人にあらず」と過激派扱いしていた。
いっぽう松陰も、長井を姑息な策を弄する奸臣と見なし「青面の鬼」と呼んで憎悪した。
安政の大獄で捕らわれた松陰を江戸へ送れという幕府の命令を直目付の長井が藩へ伝えたことも職務上のこととはいえ、松下村塾系の藩士から謂れのない逆恨みを買うことになった。
長井雅楽は外に真意を漏らさなかったが、松陰の江戸護送が断腸の思いであることを家族に伝えている。
後に長井雅楽の真意を知った、松下村塾卒塾生の一部は長井の家族を庇護している。』
(長井雅楽(Wikipedia)より)
長井雅楽の長女貞子は後に国営企業の富岡製糸場に勤務している。
おそらく伊藤博文らの斡旋があったのであろう。
皮肉なことに、明治新政府が取った外交政策は長井雅楽の航海遠略策だった。
晋作は、政敵長井雅楽の政策の中に自らの活路をも見出していたのかも知れない。
松陰を乗せた籠は、約1ヵ月後に江戸に到着した。
『松陰東送であるが安政6年(1859)6月25日に江戸に到着(長州藩桜田上屋敷)している。
そして7月9日に尋問を受け、そままま伝馬町牢屋敷に収監された。』
(「長州藩死者数並びに長州藩諸事変に関わった他藩人死者」より)
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakuhan/jinbutsu/bochoshisya-1.htm
7月、伝馬町牢屋敷に移った松陰は、晋作の死生観の問いに手紙で答えた。
『松陰は、弟子の高杉晋作から、男子たる者の死生観について問われ、以下のように答えている
死は好むべきにも非ず、亦(また)悪むべきにも非ず。
道尽き心安ずるすなわち是死所。
世に身生きて心死する者あり。身亡びて魂存するものあり。
心死すれば生くるも益なし。魂存すれば、亡ぶも損なきなり。
死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。』
「道尽き心安ずるところ」が死所であるとしている。
求める崇高な目標を求める旅が終わり、平安の心が生まれるところとでも言うのだろうか。
当然のこととして、松陰は『死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。』を選ぶだろう。
しかし、晋作は師の言葉にある『生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。』を取ったものと思われる。
松陰はそうするように晋作にほのめかしたようである。
松陰のような過酷な思想教育を受けた人間は、一人しかいない。
松陰は自分の選ぶ道を他の人間が辿れるとは思っていなかっただろう。
久坂さえ、完全には松陰をトレースできずに最後は切腹をしている。
松陰なら、決して切腹を選ばなかっただろうと私は思う。
あらゆる戦略を駆使して、戦って戦い抜くはずだ。
黒船密航の松陰の行動を見れば、そう予想できる。
櫓が壊れてしまって、兵児帯や褌で魯を固定して漕いで、ペリー艦隊の旗艦へたどり着いているのである。
太平洋の夜の風雨の中で実際にカッター船などを漕いだことのある人なら、それがどれほど困難な行為であるかわかるだろうが、多くの農耕民族である日本人にはよくわかっていない。
「生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。」と師に言われた1ヵ月後(8月23日)、晋作は久坂玄瑞に対して「攘夷には富国強兵が必要」と手紙に書いている。
この「富国強兵」は、当時の武士が藩を『国』と見ていたのだから晋作も長州藩を「国」として富国を主張したものである。
しかし、後に上海に渡ってからの晋作の脳裏には、日本国という概念がはっきりと見えてきたはずである。
革命後の新政府で晋作がやるべき「大業の見込み」の種は、この江戸留学で得られたと言えよう。
恩師松陰は、そのわずか2ヵ月後に江戸伝馬町の座敷牢で斬首された。
それは安政6年(1859)10月27日(1859年11月21日)のことであった。
武士としての最低限の礼儀である切腹さえ許されない、惨めな罪人としての恩師の最後だった。
松門四天王たちの断腸の思いは、切腹した主君を持つ赤穂浪士よりも強かったことだろう。
『(松陰は、)9月5日、10月5日、16日に尋問を受けている。
この16日の尋問で供述内容をめぐって奉行らと論争になった。
この紛議以降松陰は自らの刑死を確信する。
最後の書簡は10月20日(父・叔父・兄宛)である。
その中に 「親思ふこころにまさる親ごころ けふの音づれ何ときくらん」
そして、かの有名な留魂録は25日に書き始められる。』
(「長州藩死者数並びに長州藩諸事変に関わった他藩人死者」より)
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakuhan/jinbutsu/bochoshisya-1.htm
16日の尋問で松陰は、「水野土佐守の暗殺、老中間部の要撃」計画立案を自ら告白したのであろう。
自分が死刑になることを覚悟の上で、あえて幕末の日本を混乱の渦に巻き込もうという戦略を実行したのである。
そういう混乱の中でなければ、松門一期生の山県半蔵(のちの宍戸たまき)が藩主の傍で育てている「草莽(そうもう)」を「蹶起(くっき)」させることはできないからだ。
晋作20歳の秋のことだった。
師の惨死は、丁度楓の葉が深紅に色づく季節であった。
士分を剥奪された松陰の遺骸は、伝馬町から浅草を経由して南千住の回向院墓地に埋葬されたが、巣掘りの穴に土をかけたような罪人用の土葬であった。
その約1ヵ月後の11月16日、晋作は萩の自宅に戻ってきた。
晋作は26日に周布政之助に対して「吉田松陰の仇は討つ」と手紙に書いている。
翌27日、高杉晋作、久坂玄瑞はともに松陰の霊を弔っている。
このとき、ここ松本村の松陰の墓の中には、遺髪しか入っていなかっただろう。
遺骸は弟子たちの手の届かない南千住の回向院で、罪人墓として幕府に管理されていた。
当時の罪人墓は、野犬が徘徊するような場所だったそうだ。
晋作が松陰の遺骨を世田谷へ回葬できたのはそれからおよそ3年後のことだった。
上海に2ヶ月間滞在後、晋作は帰国(1862年7月)し、その5ヵ月後に品川御殿山のイギリス公使館を焼き討ち(12月)し、年が明けて正月5日に南千住の回向院へ向かった。
晋作らはそこから松陰の白骨化した遺骸を掘り起こし、泥をぬぐい、甕に納めて世田谷へ回葬した。(1863年1月5日)
そのわずか3ヵ月後の4月10日、晋作は萩・松本村に草庵を構え、再びこの松陰の墓を訪ねている。
私は、そのとき晋作は遺骨の一部をここに葬ってあげたのではないかと推理している。
それは塾生の生活の世話を焼いてくれた松陰の実母杉滝子へのせめてもの恩返しであったはずだ。
そのとき晋作は松陰の墓と楓の青葉を一緒に眺めていたに違いない。
上の写真にある位置、今の晋作の墓の位置に晋作は立って、松陰の墓石と楓の木を長い間見つめていたのではないか?
友人や親族の誰かがその様子を見ていたのだろう。
そのときは春だから、あいにく楓の葉は色づいてはいなかった。
しかし、晩秋11月における松陰の墓の上の景色を晋作は想像できたはずだ。
松陰たった一人の墓の頭上一面が、血の色に染まるのである。
他の高貴な人々の墓の背景が普通の雑木林の風景であるのに比べて、ここ松陰の墓石の周囲の植樹は明らかなエクステリアデザイン思想に基づいてなされている。
日本古来の墓場の設計ではない。
そのデザイナー自身も、一番その風景が鮮やかに見える位置に葬られてさぞかしご満悦であろう。
世田谷の松陰墓も高杉晋作のエクステリアデザインだった。
世田谷太夫山の楓の木の根元に松陰の白骨を埋めたのは晋作である。
よく似た二つの光景が、晩秋には東京・世田谷と山口・萩で同時に展覧されるのである。
「松陰の墓と楓が同時に見える場所」に立ち、晋作は家族にここへ自分の墓を立てよと頼んだのかも知れない。
そこは、いつまでも恩師と楓と指月山を一望できる場所であった。
その感傷の裏に、私はフランシスコ・ザビエルが山口と萩で仕掛けたからくりの遺物の存在を感じている。
萩・松本村の草庵に晋作が入居して2ヵ月後の6月6日に、晋作は下関で奇兵隊を組織した。
しかし、下関吉田での民兵の銃火器訓練などがあって、実際の挙兵までにはおよそ1年半を要している。
功山寺挙兵(下関市長府)は元治元年12月14日(1865年1月12日)、赤穂浪士討ち入り、並びに松陰の東北遊行出立の日を狙った。
しかし、実際挙兵したのはいろいろあって翌日になってしまった。
晋作と松陰にとって、赤穂浪士と東北遊行が、意外と大きな意味を持っていることがわかる。
いずれも反幕府行動という点で一致している。
それは逆に尊王行動でもあったかも知れない。
両者の出来事の後援者(パトロン)の一人が朝廷側であったということを示唆している。
「上海帰りの晋作」は目が覚めたように行動的になり、過激になっていく。
長崎や上海で一体何があったのであろうか。
『高杉晋作がアメリカから派遣された宣教師を訪ねた崇福寺=長崎市鍛冶屋町
長崎での貿易振興進言
■開明的な思想
長州藩士高杉晋作は清国上海へ渡航するために長崎を訪れた。
出発を待つ間、長崎の貿易事情に関心を強め、桂小五郎、久坂玄瑞と思われる「両大兄」への手紙に「長崎互市之策」を記した。
長州藩が長崎の海岸に蔵屋敷を構え、上海、ロンドン、ワシントンなどとの貿易を振興する内容。
「強兵は即ち富国ことなり」と進言し、開明的な思想を行動に移していく。
西洋列強の外圧が高まる中、晋作は吉田松陰らの影響を受け、「翼あらば千里の外も飛めぐり、よろづの国を見としぞおもふ」という和歌をつくり、海外留学を切望。
幕府が上海に貿易視察団を派遣することになり、晋作は藩命によって同行することになった。
文久2(1862)年1月、晋作は長崎に向けて江戸藩邸を出発。
2月初旬、長崎に到着した。
出発を待つ間、日米修好通商条約を機にアメリカから派遣されて崇福寺に滞在していた宣教師のウィリアムズ、フルベッキを訪問。
アメリカの南北戦争や社会制度について聞くなど、外国情勢の情報を集めた。
幕府は長崎で、上海視察のための帆船をイギリス商人から購入。
長崎奉行高橋美作守和貫により千歳丸と命名された。
4月29日に長崎を出港。
当時、長崎では麻疹(ましん)が流行し、晋作も発熱に苦しみながら乗船した。
5月6日、上海に到着。
晋作は清国の現状を目の当たりにした。
アヘン戦争に敗れ、さらにアロー号事件を経て外国勢力が浸潤。
「支那人は尽く外国人の便役と為れり。支那の事に非ざるなり」と日本の将来に危機感を示し、「我日本ニモ速ニ攘夷ノ策ヲ為サズンバ」と、外国による植民地化に対抗する志を強めた。』
(「高杉晋作 藩命受け上海視察」より)
http://www.nagasaki-np.co.jp/press/ryoumaugoku/kikaku5/05/index.shtml
長州藩が上海、ロンドン、ワシントンなどとの貿易を振興する。
そういう内容を、晋作は手紙で木戸隆允(桂小五郎)や久坂玄瑞へ書き送っている。
それは英国商人グラバーとの協議に基づいた提案であろう。
かつて晋作は松陰に「攘夷は富国強兵によって実現する」と言ったが、その「富国」の具体的提案である。
私が驚いたことがここに書かれていた。
晋作が上海渡航前にアメリカ宣教師のウィリアムズ、フルベッキを長崎で訪問していることである。
しかもこの宣教師は、「フルベッキ写真論争」で、現在でも有名な宣教師である。
プロテスタント教会の聖体拝領ルター主義と密接に結びついているモラヴィア教会で洗礼を受けている。
正確にはグイド・フルベッキ、サミュエル・ロビンス・ブラウン、ダン・B・シモンズグイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(Guido Herman Fridolin Verbeck、或いはVerbeek)という。
サミュエルの名に、私は自然とユダヤ人を直感する。
オランダの法学者・神学者、宣教師で、オランダユトレヒトで工学を学んだ技術者でもある。
『両親は敬虔なルター派の信徒とされているが、正確にはオランダ系ユダヤ人であり、いわゆる改宗ユダヤ人である。
フルベッキはモラヴィア教会で洗礼を受け、同派の学校でオランダ語、英語、ドイツ語、フランス語を習得している。
中略。
「フルベッキ写真」とは、フルベッキとその次女・エマ(夭逝した長女と同名)を囲んで、致遠館の塾生と岩倉具定・具経兄弟などが集まり、写真師上野彦馬によって撮影された写真。
現在の研究では、撮影時期は1868年12月(明治元年10月-11月)頃とほぼ特定されている。
この写真は古くから知られており、1895年(明治28年)には雑誌『太陽』で佐賀の学生達の集合写真として紹介された。
その後、1907年(明治40年)に発行された『開国五十年史』(大隈重信監修)にも「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」とのタイトルで掲載されている。
1974年(昭和49年)、肖像画家の島田隆資が雑誌『日本歴史』に、この写真には西郷隆盛・高杉晋作・勝海舟・坂本龍馬・大隈重信らが写っているとする論文を発表した(翌々年にはこの論文の続編を同誌に発表)。
島田は彼らが写っているという前提で、写真の撮影時期を1865年(慶応元年)と推定。
佐賀の学生として紹介された理由は、敵味方に分かれた人々が写っているのが問題であり、偽装されたものだとした。
この説は学会では相手にされなかったが、一時は佐賀市の大隈記念館でもその説明をとりいれた展示を行っていた。
また、1985年(昭和60年)には自由民主党の二階堂進副総裁が議場に持ち込み、話題にしたこともあったという。
また、2004年(平成16年)には、朝日新聞、毎日新聞、日経新聞にこの写真を焼き付けた陶板の販売広告が掲載された。
東京新聞が行った取材では、各紙の広告担当者は「論議がある写真とは知らなかった。」としている。
また、業者は「フルベッキの子孫から受け取ったもので、最初から全員の名前が記されていた」と主張している。
2009年現在、朝日新聞と毎日新聞は「フルベッキ写真の陶板」広告を掲載し続けている。
この写真の話題は間歇的に復活して流行する傾向がある。
ちなみに最初に島田が推定した維新前後の人物は22人であったが、流通する度に徐々に増加。
現在では44人全てに維新前後の有名人物の名がつけられている。
現在でも土産物店などでこの説を取り入れた商品が販売される事がある。
また、大室寅吉という名で後の明治天皇が写っているとした説や、「明治維新は欧米の勢力(例:フリーメイソン)が糸を引いていた」説等の陰謀論、偽史の「証拠」とされる例もある。』(グイド・フルベッキ(Wikipedia)より)
当然上海でも晋作は宣教師に会って話を聞いたはずである。
エデンの園の門を飾る楓の木が、上海渡航中に晋作の脳裏に鮮やかな深紅の葉を広げていったのではあるまいか。
「大室寅吉という名で後の明治天皇が写っているとした説」をたどっていくと、南朝方天皇の末裔を名乗る長州藩士で周防生まれの大室寅吉という人物が浮かんでくる。
彼が、毒殺された孝明天皇の子息になりすまして江戸遷都のドサクサの中で明治天皇になり済ませたと仮定すれば、それは北朝天皇から南朝天皇への交代となり、しかも天皇家の皇統は継続したこととなる。
周防柳井(山口県柳井市大畠遠崎)妙円寺の住職を勤めていた僧月性の狙いが、南朝方天皇の復活であるという仮説を私が立てたのは、フルベッキ写真の影響を受けたものだった。
聾唖の実弟を持つ野山獄の松陰のもとへ、同じ聾唖の僧侶宇都宮黙霖をけしかけた僧である。
それによって、松陰の思想は超過激派へとスイッチオンになった。
月性が探し出した過激な仕掛け花火「松陰」に点火した黙霖だったが、なぜか明治維新後は隠棲したかのように大人しくなってしまっている。
『(黙霖は、』明治14年頃から呉市の沢原家(当時の郡長で、従来から交友があった人)の食客となり、安芸郡役場の嘱託として晩年を送り、明治30年に74歳でその一生を終えました。
当時の総理大臣伊藤博文が広島へ来られた時、一度黙霖先生にお会いしたいとわざわざ呉まで尋ねて来て、「先生」「先生」と呼ぶので、周りの人は一様に驚いたという逸話が残っております。
明治44年、鏡如上人(光瑞門主)は、その功を賞して特別賞与第一種と「操心院」の院号を追贈されております。また大正5年には、政府から従五位を贈られています。』
(「宇都宮黙霖」より)
http://homepage1.nifty.com/hiro-sentoku/old/sekisen/sekisen_mokurin.htm
総理大臣の伊藤博文が広島の隣の呉の田舎までやってきて、「先生」「先生」と呼ぶので、周りの人が一様に驚いている様子は、明治以後の黙霖の隠棲の様子をうまく表している。
では、仕掛け人月性はその後どうなったのであろうか。
『途中略。
その吉田松陰の勤皇思想に多大な影響を与えたのが14歳年上の僧月性です。
「篤姫」に出てくる僧月照とは一文字違いです。
僧月照は京都市の清水寺です。
僧月性は山口県の寺です。
別人です。同じ勤皇僧ですので混同します。
二人とも同じ年、安政の大獄の年に死亡しています。
僧月性は山口県柳井市大畠遠崎の妙円寺の住職で、境内に私塾「清狂草堂」をつくり仏教の勉強と武術の訓練をしていました。
新しい時代への備えでした。
そのころ西本願寺の広如門主によって京都へ招かれました。
そして西本願寺の別荘で半年かけて「仏法護国論」を書き上げました。
僧月性は列強の植民地化の手口をよく研究していました。
最初にキリスト教の牧師が来てキリスト教を広めて人心を掌握してのち政府と軍艦が来て植民地化した方法です。
そこで「仏法護国論」の海防論の理論構築をしたのです。
西本願寺はすぐに「仏法護国論」を印刷して諸国の寺へ配りました。
当時、ベストセラーになったそうです。
これより17年前に僧月性は佐賀で、巨大な蘭船を初めて見て「海防論者」となりました。
長州は毛利元就の流れです。
毛利元就は織田信長が西に攻めて来ないように石山本願寺(今の大阪城)で食い止めようとしました。
その点でも西本願寺と毛利は利害が一致しました。
毛利元就と浄土真宗門徒とは表裏一体でした。
毛利側は関ヶ原の合戦で西軍についたため中国地一円を支配していた毛利は長州の狭い所に封じ込められました。困窮します。
そこで、武士と庶民が一緒になって生き延びていました。
すでに武士階級と庶民の隔たりは薄くなっていました。
そのエネルギーが噴き出して明治維新を成し遂げますが西本願寺の僧侶が大衆の気持ちをリードしたのでした。
明治維新の精神的源流は吉田松陰の背景に僧月性の存在がありました。
さらに「公武合体では生ぬるい」と吉田松陰に倒幕論まで踏み込ませた広島県(安芸の国)のろうあ者の僧侶宇都宮黙霖も居ます。
一般には吉田松陰と松下村塾しか歴史の教科書には出てきませんが実はその精神的源流には西本願寺派の僧侶の僧月性と宇都宮黙霖がいたのです。
東本願寺は徳川家の庇護によっていました。
徳川家康は浄土真宗の教団が巨大すぎるので、東西に分割して東日本を東本願寺に託します。
東本願寺は徳川系です。
それに対し分裂させられた側の西本願寺系の徳川への反発は強く「仏法護国論」が普及して、全国に一早く倒幕の指示を出したのは西本願寺でした。
尊皇攘夷です。
キリスト教の国が攻めてくるので西本願寺としても一生懸命でした。
結果的には明治維新後に政教分離の政策をとらせて日本に仏教を残したのは西本願寺の功績です。』(「明治維新と僧月性 仏教のことがわかる毎日日記」
http://blogs.yahoo.co.jp/ikasas516/43414714.html
この国を護る「護国」の法として仏教が日本へやってきたことを忘れていた。
瀬戸内海を通過する多くの外国の黒船の往来を眺めながら、周防の坊主月性は亡国のリスクを肌で感じていたのだろうか。
『写真(ここでは省略)は幕末に仏法護国を唱え活躍した詩僧「月性」の私塾である清狂草堂(別名:時習館)である。
ここからは明治維新の原動力となった奇兵隊の3代目の総督赤禰武人の他、大州鉄然、大楽源太郎、世良修蔵などの優れた人物が出ている。
嘉永元年(1848)に柳井市遠崎の妙円寺内に建てられた。
写真の扁額は三条実美(梨堂)が書いたもので僧月性資料館の中に展示してある。』
(「幕末の詩僧月性の私塾清狂草堂(別名:時習館)」(岩国情報)より)
http://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/e11b5e620f43276cfa300be9c150f328
このサイト写真にある扁額には、「清狂草堂」の上手な横書きの墨書の左隅に、小さな文字の縦書きで「梨堂書」とだけ三文字書かれている。
一般の人々は、この扁額を見ただけでは清狂草堂が公卿三条実美の支援と指示を受けて青年を教育している塾だとは気づかない。
この記事からいろいろな幕末と戊辰戦争での謎解きができそうな予感を感じた。
「明治維新の原動力となった優れた人物」の名が4人書かれているが、私の『(源太郎)史観』によれば、赤禰武人、大楽源太郎、世良修蔵は、ともに国を混乱させるために過激な行動を好んで取った人物となる。
大州鉄然のことは知らないので、簡単な経歴をここでは述べるにとどめて、他の3者同様国家混乱の元凶だったかどうかは、あとで調べてみることにしよう。
『(大州鉄然は、)1834-1902幕末-明治時代の僧。
天保5年11月5日生まれ。
浄土真宗本願寺派。
幕長戦争の際、真武隊、護国団を組織して幕府軍とたたかう。
維新後、島地黙雷(もくらい)らと西本願寺の改革につくし、明治6年大教院の宗教行政に反対して真宗分離運動を指導した。
21年本山の執行(しゅぎょう)長。
明治35年4月25日死去。
69歳。周防(すおう)(山口県)出身。
名は別に願航。
幼名は要。字(あざな)は後楽。号は石堂、九香。』
(大洲鉄然 おおず-てつねん)デジタル版 日本人名大辞典+Pluより)
http://kotobank.jp/word/
大洲鉄然の周囲にも、やや騒動の臭いがする。
さて、上の記事で清狂草堂の扁額の主が三条実美(梨堂)だったということから、月性のパトロンが三条実美だったことが見えてくる。
月性は、三条実美の要請を受けて、長い期間をかけて育ててきた「松陰という火薬」に点火することに取り組んだのだった。
着火器として、松陰に聾唖の弟がいることから、聾唖の僧宇都宮黙霖を選んだという点で、三条実美と月性コンビによる人間制御には、そら恐ろしいものが感じられる。
ライターか、マッチかの選定で、火炎の柔らかなマッチを選んだのである。
獄中にいる松陰本人への直接突破も試みたが、それが拒絶されたので、松陰の聾唖の実弟への情を突いたのである。
柔らかな火力の弱いマッチ灯ではあったが、確実に松陰の火薬に炎が乗り移ると読んだ上での黙霖人選だったのだろう。
1863年(文久3年)の八月十八日の政変において、7人の公家が京都から追放された事件を七卿落ち(しちきょうおち)と、言う。
三条実美はそのリーダー格で、藤原北家閑院流の嫡流であり、母は土佐藩主・山内豊策の女・紀子。
坂本龍馬が長州との縁により大政奉還の仕組みを動かせたのも、土佐藩主の親戚筋の応援が京都であったからではないだろうか。
京都を去るに当たって、その7人が集合した場所は、「妙法院」だった。
ここにも「妙」の文字が見える。
『妙法院(みょうほういん)は京都市東山区にある天台宗の仏教寺院である。
山号を南叡山と称する。
本尊は普賢菩薩、開基は最澄と伝える。
皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院である。
また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られる。』(妙法院(Wikipedia)より)
そういえば、僧月性が住職をしていた寺も妙円寺といい「妙」の字を持つ。
『1863年(文久3年)、薩摩藩・会津藩などの公武合体派が画策した八月十八日の政変で失脚した尊王攘夷派の公卿・三条実美(27歳:権中納言従三位)、三条西季知(53歳:正二位行権中納言)、四条隆謌(36歳:従四位上行侍従)、東久世通禧(31歳:正四位下行左近衛権少将)、壬生基修(29歳:従四位上行修理権大夫)、錦小路頼徳(27歳:従四位上行右馬頭)、澤宣嘉(28歳:正五位下行主水正)の7人の公家が京都を追放され、長州藩へと落ち延びた。
中略。
この7名は長州藩兵に付き添われて洛東にある妙法院に集結した後、兵庫津を経て、海路で長州藩の三田尻港(現・山口県防府市)を目指した。
途上悪天候のため、3隻のうち2隻が徳山藩の徳山港(現・山口県周南市)に上陸し、ここから陸路、三田尻に向かった。』
(七卿落ち(Wikipedia)より)
三条たちは、長州藩兵に付き添われて洛東の妙法院に集結している。
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2011-01-08 16:51
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