三山翁~長州(30) [萩の吉田松陰]

SH3B0112.jpgSH3B0112先の墓所背景は雑木林だった

大名の末裔のものらしき五輪の塔の姿をした墓石の近くに松陰の父母や弟、久坂ら、松陰を取り巻いていた人々の墓があったのを前の記事で紹介した。

その墓所の背景を撮影したので掲載しておく。
どこにもある普通の雑木林の風景である。
松陰の墓は少し離れたところにあり、そこの風景との対比のために敢えて近い関係者の墓所背景を撮影した。

私が世田谷で見た松陰の墓の風景は自然な雑木林の風景ではない。
人か、あるいは神の、意思が働いていると私が感じる風景だった。

松陰の実弟敏三郎は聾唖者であったが、松陰に思想的影響を与えた聾唖者は僧侶宇都宮黙霖の他に、もう一人いる。

聾の儒学者「谷 三山(たに さんざん)」である。

三山は、純粋な朱子学者であった。

『谷三山
儒学者であり、尊王攘夷論の先駆者であった谷三山のことを知る人は少ない。
『聾儒谷三山』(大伴茂、1941)が、谷三山について最も詳しい資料であろう。

これによると、谷三山は11歳の時、耳が聴こえなくなり、数年後に全聾となったとある。
11歳で進行性難聴をわずらい、全聾になったという見方ができる。

この書によると、谷三山は筆談にて多くの人との手紙のやり取り、訪問者との会話を交わしている。

著名な人間に猪飼敬所、頼山陽、斎藤拙堂、森田節斎、吉田松陰らがいる。
彼らとは、すべて筆談で思想を語り合っている。

少年時代に失聴しているにもかかわらず、生まれつきの知的才能に恵まれていて、新しい情報が全く入らない大和の田舎暮らし、藩の学問所に集まる知識人にひけをとらず、社会情勢に関する情報を正確に捉えている。

その後、三山が30歳になったときに、私塾「興譲館」を開き、多くの人々を受け入れ、詩文、経文、教育、政治など幅広く教えている。

当時から、三山は尊皇攘夷の考えから幕府の政策を厳しく批判し、吉田松陰、森田節斎、頼山陽と筆談で延々と論じ合っている。

そして三山は「尊皇攘夷論策」を発表している。

三山の先見の明には確かなものがあり、吉田松陰の日記の中に三山のことを「三山翁」とわざわざ「翁」とつけている。

どうやら、松陰は三山を尊敬しているようでもある。』
(「ろうあ者偉人伝」より)
http://image01.wiki.livedoor.jp/c/u/comskill_ris_fuku/e61ca662aef00895.pdf

松陰は1830年生まれであるから、1802年生まれの谷三山は、28歳年長の人である。

安政元年(1854年)、ペリー再航時に停泊中のポーハタン号に乗り込んだときの松陰は24歳であり、遠く奈良でその知らせを聞いた三山翁は52歳である。

松陰が三山に「翁」をつけて呼ぶのは、中国的儒教道徳上では普通のことである。
普通に尊敬していたことは間違いない。
それ以上の敬愛の情を三山に抱いていたのか、それは「翁」の一文字だけではわからない。

『谷三山は、先ほど訪れた「華甍(はないらか)」の前に顕彰碑があった。
注)今井まちなみ交流センター「華甍」

享和2年(1802)、この町の裕福な造り酒屋、重之の次男として生まれる。
11歳の時わずらい聴覚を失った。

しかし、京都の儒学者・猪飼敬所に敬服し、その門下生となった。
やがて彼の学識は、敬所の認めるところとなり、その名声を慕って、多くの人々が三山の門をたたいた。

家塾”興譲館”を興し、ここを拠点として、吉田松陰、頼山陽らと交際を結んだ。

48歳にして失明。
読書も会話も不可能となった三山は、いつも机に寄りかかって座り、門人を待った。

門人が来て、その机をたたくと、三山が手のひらを差し出す。
その手のひらに、詩文や、経典を書いて講義や、質疑応答をしたという。

数百語に及ぶ経典でも、よく暗記していて、一々添削すべき箇所をしめしたという。
慶応3年(1867)12月、66歳で没した。』
(「奈良の旅 その2」(うるめしま)より)
http://blogs.dion.ne.jp/kaiyo/archives/9850673.html

松陰が「三山翁」と敬愛したのは、聾儒者のこういう行動や態度についてであって、弟の敏三郎の病がいずれ癒えて三山先生のような人間になって欲しいという願望や憧れを伴うものであっただろう。

陽明学に傾倒していた松陰が、純粋な朱子学者三山の思想にどこまで敬服していたかどうか、それは疑問である。

参考)「CiNii 論文 - 三島由紀夫と司馬遼太郎(第12回)陽明学--松陰と乃木希典(中)
(松本 健一著)
陽明学の創始者王陽明も、元は朱子学者であった。

『当初は王陽明も朱子学の徒であったが、「一木一草」の理に迫らんとして挫折し、ついに朱子学から離れることになる。

その際王陽明は朱子学の根本原理となっている「格物致知」解釈に以下のような疑義を呈した。

まず天下の事事物物の理に格(いた)るというが、どうすれば可能なのかという方法論への疑義。

そして朱子は外の理によって内なる理を補完するというが、内なる理は完全であってそもそも外の理を必要としないのではないか、という根本原理への疑義である。

こうした疑義から出発し思索する中で陸象山の学へと立ち帰り、それを精緻に発展させたのが陽明学である。

ただ陽明学は宋代の陸象山の学を継承したものではあるが、その継承は直接的なものではない。
なお陽明学の登場は、朱子学の時ほどドラスティックではなかった。

朱子学は政治学、存在論(理・気説)、注釈学(『四書集注』等)、倫理学(「性即理」説)、方法論(「居敬窮理」説)などを全て包括する総合的な哲学大系であって、朱子の偉大さは、その体系内において極めて整合性の取れた論理を展開した点にある。

しかし陽明学はそのうちの倫理学及び方法論的側面の革新であったに過ぎない。
無論儒教に於いて倫理学的側面は最も重要だったといえるが、だからといって大規模なパラダイム・シフトが起こったわけではなく、その点は注意を要する。

中略。

陽明学が開いた地平
聖人観の変化
宋以後、「聖人、学んで至るべし」と言われるように、聖人は読書・修養によって人欲を取り除いた後に到達すべき目標とされるようになる。

つまり理念的にはあらゆる人が努力次第で聖人となる道が開かれた。
ただ読書などにかまける時間が多くの人々にあるはずもなく、実際にはその道は閉ざされたままだったといえる。

しかし陽明学では心以外の外的な権威を否定するため、もう読書などは不可欠なものとは認められない。
むしろ万人に平等に、そしてすでに良知が宿っていることを認めていこうとする。

王陽明のある弟子の「満街これ聖人」(街には聖人が充ち満ちている)ということばは端的にこのことを表現していると言えよう。

陽明学にあって聖人となれる可能性があるのは、読書人のみならず普通の庶民にも十分あるとされるのである。

朱子学との連続性を考慮するならば、宋以後における聖人の世俗化の動きが、明代中葉・末期に至ってひとつの頂点を迎えたといえる。

中略。

清末の陽明学
陽明学の沈滞状況は、1840年のアヘン戦争以降徐々に変化する。

まず『海国図志』を著した魏源によって陽明学は見直され初め、康有為の師である朱次琦は「朱王一致」を再び唱えるなど陽明学は復活の兆しを見せるようになる。

後に今文公羊学を掲げる康有為自身も吉田松陰の『幽室文稿』を含む陽明学を研究したという。』(陽明学(Wikipedia)より)

「満街これ聖人」という陽明学の思想的展開は、のちの民主主義や人道主義に近いものを感じる。

欧米列強のアヘンを伴う植民地政策の行き過ぎが、陽明学の変質をも招いたのであろう。
野山獄で書いた吉田松陰の『幽室文稿』を、中国人康有為(和名表記: こう ゆうい)が学ぶという時代背景があった。

『1895年、康有為が科挙に合格した時はまさしく下関条約が締結された時期にあたり、科挙受験者をまとめ上げて日本への徹底抗戦を上奏し一躍時の人となった(公車上書)。

(清朝が)明治日本に敗れたことは、康有為に政治改革の緊急性を認識させ、同時に短期間で改革を成し遂げた明治日本へのより一層の興味関心をかきたてることになる。

そして明治日本やロシアをはじめとする西欧各国の現状についての理解が深まるにつれ、それまでの改革、すなわち李鴻章や曽国藩らの主導のもとで行われていた洋務運動を形式的だと非難して、徹底した内政改革による洋務運動、つまり変法による改革を主張するようになった。

その後、時の皇帝・光緒帝に立憲君主制樹立を最終目標とする変法を行うよう上奏を幾度となく行い、1898年6月、ついに光緒帝から改革の主導権を与えられることとなった(戊戌の変法)。

ところが康有為の改革は当時、清王朝の実権を掌握していた西太后ら保守派の反感を買うこととなり、改革は9月、わずか100日あまりで西太后のクーデターにあって失敗に終わった(戊戌の政変)。
そしてこの時康有為の実弟を含む同志の幾人かは逮捕処刑されてしまった(戊戌六君子)。

しかし康有為自身は一旦上海のイギリス領事館に保護され、その後大陸浪人の宮崎滔天や宇佐穏来彦らの手引きで香港を経由して日本に亡命している。
その日本で同じく亡命してきた愛弟子梁啓超と邂逅を果たすのである。

ちなみに康有為はこれ以後日本に都合三度ほど滞在し、犬養毅や大隈重信、佐々友房、品川弥二郎、近衛篤麿、伊藤博文といった明治の著名人と親交を結んでいる。

また須磨在住の際に知り合った日本人の女性を妻として迎えてもいる。
日本とは因縁浅からぬ人物であったといえよう。』
(康有為(Wikipedia)より)

松陰の弟子である品川弥二郎と伊藤博文がちゃんと康有為の面倒を見ている。

松陰の兵学の師「山鹿素行」は、その著書「中朝事実」でいう、本当の中華思想は日本国の中にこそある、という気迫は松陰を経て現実化しているように見える。

もし、松陰が三山の純粋朱子学を敬服していたとすれば、幕末あれほどの過激な思想には至っていなかっただろう。

過激派松陰の仕込みには、もう一人の聾唖の僧侶、宇都宮黙霖の「影響」があったと言える。
黙霖を萩へ行かせ松陰と会わせようと画策したのは、山口県柳井の僧月性であろう。

『安政2年(1855)の9月、黙霖という30代半ばの僧が萩にきて、藩儒「士屋蕭海」の家に滞在して、吉田松陰が書いた『幽因録』を読んだ。
今度、萩へきたのは、吉田松陰と論争をするのが目的であった。

海外密航を企てた罪で、萩の野山獄につながれた松陰は出獄して、松本村の父の家で謹慎をさせられている。

黙霖は芸州加茂郡(広島県呉市長浜)生れの本願寺派の僧で、やはり僧だった父の私生児である。

幼いときに寺にやられ、唖で聾という二重苦を負いながら、和、漢、仏教の学問に通じ、諸国を行脚して勤皇を説いた。

周防の僧、月性は親友である。

黙霖は松陰に面会を申し込んだが、松陰は「わしが容貌にみるべきものなし」と断わり、二人は手紙で論争をした。

実は松陰は、この時期「倒幕」の考えをもっていたわけではなかった。
彼が説いたのは、「諌幕」である。

野山獄にいた頃にも、少年時代から学んだ水戸学の影響から抜け出てはいなくて、兄の梅太郎に書いた手紙には、
「幕府への御忠節は、すなわち天朝への御忠節にて二つこれなく候」
「君は君道をもて君を感格し、臣は臣道をもて君を感格すべし」
と、藩主にも徳川にも臣としての厳格な立場を守っていたのだ。

しかし黙霖との論争で、29歳の松陰はたたきのめされた。

「茫然自失し、ああこれまた(僕の考えは)妄動なりしとて絶倒いたし候」
「僕、ついに降参するなり」

黙霖の論というのは、つぎのようなものである。

「幕府の政治は、支那でいう覇道にほかならず、この国を古えの朝廷政治の王道にもどさねばならない」
「孔孟の道にしたがい、今の幕府は放伐すべきである」
「水戸学は口では尊王を説くが、いまだかつて将軍に諫言をし、天室を重んじたためしがないではないか」

そして、黙霖は、松陰に山県大弐が明和の昔に著わした『柳子新論』の筆写本を贈った。

大弐は孟子の放伐論によって徳川幕府を否定し、日本の古代王朝政治に王道をみようとした。
そして民衆の教化に乗り出したら、弟子の密告によって捕えられ、斬首された。

吉田松陰の目は開いた。
「僕は毛利家の臣なり。ゆえに日夜、毛利に奉公することを練磨するなり。
毛利家は天子の臣なり、ゆえに日夜、天子に奉公するなり。
われら国主に忠勤するは、すなわち天子に忠勤するなり」

松陰のこれから歩く道はきまった。

「もしもこの事が成らずして、半途に首を刎ねられたればそれ迄なり。もし僕、幽囚の身にて死なば、われ必ず一人のわが志を継ぐ士をば、後世に残し置くなり」

そしてこうも書き送った。「僕は口先でとやかくいうのは、生来大きらいで、以上のことも口に出しませんが、上人のことゆえ申すのです。僕がこのことによって死ぬるのを、あなたは黙って見てくれよ」

この手紙を読んで、黙霖毛髪が逆立ち、声をあげて泣いた。「同窓会百年史」』
(「宇都宮黙霖 うつのみやもくりん」より)         
http://blogs.yahoo.co.jp/deafdramaz/62007847.html

聾唖の僧の面会要請に対して、松陰は「わしが容貌にみるべきものなし」と自分の視覚情報価値の有無を評価して面会拒絶の理由にしている。

耳が見えず、声を発することのできない黙霖は、『幽因録』の著者松陰を人目見たかったのであろう。

しかし松陰は黙霖に残された視覚だけを用いたところで、自分の価値はわかるまいと突き放したのである。
むしろ聾唖者ならば、文字のやり取りで殆どすべてが理解し合えるという自信松陰にはあったのだ。

弟敏三郎がそれを教えてくれた。

『宇都宮黙霖(うつのみやもくりん)は、明治維新の勤皇僧として、吉田松陰・月照(京都の清水寺成就院の住職)たちと交わって討幕に奔走し、数奇な運命のもとに活躍した人物であります。

幼名は宇都宮采女といい、法名を覚了、または黙霖といいます。
その他真名介・雄綱・絢夫・斐夫・楳渓・雪郷・文雄・史狂王民・史狂道人・源雄綱・日本三蔵などなど、自らさまざまな名を用いています。

文政7年(1824)に長浜(安芸国(広島県)賀茂郡)で生まれましたが、その一生は誠に不遇な出生から始まっております。

父は中黒瀬村西福寺の三男峻嶺で、石泉塾で勉学中の身でありました。

その峻嶺と長浜の旧家下兼屋宇都宮作兵衛の娘お琴との間に生まれるのですが、峻嶺は勉学中の身で結婚を認められず、実家へと帰され、お琴は姉の嫁ぎ先である住蓮寺で采女を出産しました。

生後半年は母のもとで育てられていましたが、父としての責任から西福寺へ引き取られ、黒瀬で育てられることとなりました。

しかし、そこでも厄介者として入籍させられず、若い父は途方にくれながら、貰い乳をして育てました。

3歳の秋、八本松阿弥陀堂の堂守一道のもとに養子に出されました。

一道といっしょに農作業に従事していましたが、なかなかいうことを聞かず、7、8歳の頃に手習修行のためとして長浜へと帰され、しばらく母のもとで暖かい養育を受けることになりました。

後に一道のもとへ連れ戻されますが、どうしてもその生活になじめず、ついに母のもとへと逃げ帰り、一道に義絶され、長浜での生活が続くこととなります。

しかし、不倫の子、日陰者といじめられながらの日々は、あまりにもつらかったのでしょう。
手のつけようのない腕白小僧に育ってゆきました。

叔父にあたる専徳寺の常諦は、この腕白小僧をわが子のようにかわいがっていましたが、その腕白ぶりを見かねて、『大学』の素読を授け、勉学の道を勧めました。

時に15歳。
この頃から心機一転、学問に志すこととなったのです。

その後、西条町(広島)の漢学者野坂由節に師事し、次いで蒲刈島弘願寺円識(石泉和上の弟子・本願寺派勧学)について宗学を学び、さらに円識の奨めで、天下に師を求めて遊学し、広島の坂井虎山(芸州きっての儒学者)・木原桑宅・肥前平戸の光明寺拙厳勧学などを尋ねていったと伝えられています。

そんな黙霖でしたが、20歳の頃、大阪で大病を患い、長浜に帰って療養しました。
しかし、その結果耳が聞こえなくなり、その後はすべて筆談を用いることになりました。

弘化2年、22歳の夏に得度して本願寺の僧籍に入り、法名覚了となります。
しかし、後に「黙霖」の号を称することが多く、世間でもこの法名を通称としています。

この頃から国学研究によって勤皇論を唱え始め、それから40余国をわたり識見をひろめ、多くの漢学者・国学者と出会い、ますますその思想を固めてゆきました。

嘉永5年、江戸に上って老中阿部伊勢之守正弘に、尊王抑覇の論稿を送って、反幕府的思想を確立し、ひとり勤皇討幕論を叫んで人身を驚かせました。

そのため、安政元年、幕府・広島藩からの追及を受け、父峻嶺にも厳しい詮議が及びましたが、よく逃れて、また流浪の旅を続けます。

安政2年、萩に赴き、吉田松陰の『幽囚録』を読んで感動し、獄中の松陰に書を送って文通を繰り返して、松陰に大きな思想的影響を与えたといわれております。

松陰が「時局観を先にし、攘夷の為に尊王論を統一し、人身を一に帰せしむべし」と考えたのに対し、黙霖は「国体論を第一にし、攘夷の有無に拘らず尊王を叫ぶべきである」と主張しました。

また、松陰が幕府に対して、その誤りを諌める考えであったのに対し、黙霖は徹底的に討幕を主張して、松陰に思想的転換を与えたのです。

安政の大獄の際に、頼三樹三郎・梅田雲浜などといっしょに捕らわれましたが、僧形のために釈放されたとか、広島藩に捕えられ、棺に入って脱出し、山口に逃れて毛利家の歓待を受けたともいわれています。

再び広島藩から幕府に渡され、大阪にいた時、ようやく明治維新を迎えることとなりました。

明治2年に釈放され、還俗してからは宇都宮真名介と名乗りました。
そして、明治4年に終身三人附持の沙汰があり、同6年、湊川神社権宮司・男山八幡宮の禰宜(ねぎ)ねぎに補任せられています。

維新後は長年の宿望が成し遂げられたためか、それまでの烈しさはまったく影をひそめておりました。

明治10年頃、長浜へと帰り、石泉文庫にある大蔵経を読破して、この和訳を行い、それから約20年間を費やして46万首の和歌の形式に整えております。
その中の35万首が現在石泉文庫に遺されています。

若い頃から詩や和歌を好み、20歳の頃につくった『菊花の詩』は、志士の間で愛好されたといわれております。

明治14年頃から呉市の沢原家(当時の郡長で、従来から交友があった人)の食客となり、安芸郡役場の嘱託として晩年を送り、明治30年に74歳でその一生を終えました。

当時の総理大臣伊藤博文が広島へ来られた時、一度黙霖先生にお会いしたいとわざわざ呉まで尋ねて来て、「先生」「先生」と呼ぶので、周りの人は一様に驚いたという逸話が残っております。

明治44年、鏡如上人(光瑞門主)は、その功を賞して特別賞与第一種と「操心院」の院号を追贈されております。また大正5年には、政府から従五位を贈られています。』
(「宇都宮黙霖」より)
http://homepage1.nifty.com/hiro-sentoku/old/sekisen/sekisen_mokurin.htm

鏡如上人(光瑞門主)とは、本願寺第二十二代宗主鏡如(きょうにょ)上人(1876~1948年)のことである。

『明治三十一年(1898)、23歳で貞明皇后(ていめいこうごう:大正天皇の皇后)の姉君・九条籌子(くじょうかずこ)様とご結婚され、その後、明治三十六年(1903)に明如上人のご往生のあとを承けて28歳で本願寺の法灯をご継職されました。』

(「10月5日御祥月 本願寺第二十二代宗主鏡如(きょうにょ)上人より」)
http://tsukijihongwanji.jp/gorekidai/1574


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