杉 滝子~長州(28) [萩の吉田松陰]

SH3B0095.jpgSH3B0095大名クラスの墓だ!
SH3B0096.jpgSH3B0096その左前に松陰の実父母の墓

大名クラスの墓だとすぐわかる墓が正面に見える。
五輪の塔のような墓石であり、周囲と特別異なっている。

福島正則の娘の墓、玄興院殿の墓を東京・港区の寺に訪ねたときに、こういう立派な背の高い墓石だった。

私の祖父が住職をしていた九州の寺と因縁がある人物の墓なので、東京に転勤したときにお参りしたことがある。

その福島正則の娘の墓によく似た形式の立派な墓が高杉晋作の草庵の真向かいにあった。

つまり、松陰や晋作の居室と同様に、この大名クラスの墓は常に指月山(萩城)を毎日見下ろしていたのである。

指月城に毛利が移封されるまえに住んでいたのは、誰だったか?

『(吉見正頼は、)石見国津和野三本松城に本拠を置く国人領主であるが、毛利輝元が慶長九年(1604)に萩城を築城する以前に、すでに萩の指月に居館を設けて』いたのである。
(「萩のシンボル「指月」について」より、一部加筆して抜粋した。)

石見領主の吉見正頼の別館であり、その正室は大内義隆の姉であった。

だから大内義隆の遺児と遺臣達は、山口を出てきっと萩の指月城へ入っただろうと私は推理した。

よってこの大名クラスの墓と思しきものは、大内義隆の末裔に当たる人物の墓であろう。

その左手前に杉百合之助と書いた立て札が見える。
その右手、つまり大名クラスの墓のまん前に久坂玄瑞の墓がある。
二人が重要な仕事をしたことを顕彰しているかのように見える。

『杉 百合之助
妻の滝との合葬墓。
吉田松陰の実父、萩藩士(実録二十六石)。

妻滝との間に三男四女(松陰は次男)。
杉家一族の中心として困難の中で誠実に生き抜き、○○松陰を暖かく応援し続けた。
慶応元年(1865)没。行年六十二歳』

「○○」部は「桂神」または「柱神」と読めるが老眼でははっきりと読み取れなかった。

父親の百合之助は、慶応元年(1865)に亡くなっている。
明治元年が1868年10月23日だから、息子松陰が点火した革命の成就を見ることなく逝ったのである。

母親の滝は松陰の革命を見届けたのだろうか?
玉木文之進による過酷な教育指導を見て、「虎や、死んでおしまい!」と叫んだあの母親滝である。

『1807-1890江戸後期~明治時代の女性。
文化4年1月24日生まれ。吉田松陰の母。
児玉家の養女となり、杉百合之助(ゆりのすけ)にとつぎ3男4女を生む。

次男松陰が松下村塾をひらくと,これをよくたすけた。
晩年仏門に帰依(きえ)した。

明治23年8月29日死去。84歳。
長門(ながと)(山口県)出身。

本姓は村田。』
(「杉滝子【すぎ-たきこ】」より)
http://kotobank.jp/

松陰の実母は大変長生きしていた。

明治以降に名を「滝子」と改めたのであろう。
江戸時代はおそらく一文字で、「お滝」の呼び名である。

あの過酷だった幼い虎之助に対する教育指導の意味を、明治以降の松陰の母親は納得していたことだろう。

最後の行に「本姓は村田」とある。

これは、村田清風家と姻戚関係にあったかどうか。
私としては大いに気になるところである。

村田清風は松陰よりも少し前の時代の藩士であるが、私には吉田松陰と良く似た匂いのする人物に思われる。

両者に接触があったとしてもわずかな期間であっただろうが、私には村田清風が松陰と同じように楓や松や棕櫚を愛していたのではないか、という気がしている。

母の滝は、「松陰が松下村塾をひらくと,これをよくたすけた」とあるが、どういう風に支援したのだろうか。
次の記事に詳しく述べられていたので抜粋する。

『途中略。
やがて牢から出され、謹慎を命じられた。
ここで、内々に塾を開き、青少年の教育に当たるようになった。
有名な「松下村塾」である。
※ 松下村塾(しょうかそんじゅく)・・・松陰が主催した私塾。

高杉晋作、伊藤博文らを輩出した。

塾に寝泊りして苦学している者もいる。

松陰の母は、食べ物を差し入れるだけでなく、洗濯や掃除、風呂の準備まで、細々と門下生の世話を焼いた。

時勢を論じれば議論百出し、会合が冬でも深夜に及ぶことが。
そんな時でも、常に母は、終わるまで隣室に控え、火鉢で焼いたかきもちや熱い番茶を配り、皆の疲れをいたわっていたという。

松陰の門下生の心をつかみ、幕末に活躍する人材を育てた背景には、優しい母が、門下生の母となって愛情を注いでいたことも見逃せない。

徳川幕府は、松陰と松下村塾に不穏な動きがあると見た。
松陰は、再び捕らえられ、江戸へ送られてしまう。

母は、松陰が江戸へたつ前の晩に、風呂で背中を流してやった。
「きっと無事で帰ってこられるでしょうね」

心配する母に松陰は、
「大丈夫、帰ってきますから」と、にこやかに答えるのであった。

松陰が江戸へ向かってから五ヶ月後のこと、母は疲れてうたた寝をしていた。
すると松陰が、「お母さん。ただいま帰ってまいりました」と元気な笑顔で言った。
それは、近年にない明るい姿であった。

母は、非常に喜んで、「まあ、珍しい」と声をかけようとすると、夢が覚めたという。

それから、二十日余りして、松陰が刑場の露と消えた知らせが届いた。
母が夢を見たのは、ちょうど息子の死刑の時刻であった。』
(杉滝子【すぎ-たきこ】より)
http://kotobank.jp/word

滝は松門の門下生の母でもあったのだ。

総理大臣になっても、伊藤博文はきっと何度も滝の住む家に足を運んだことだろう。
そして松陰の位牌にもその後の日本国の様子を報告したことだろう。

松陰や吉田稔麿らが運営すれば違う日本国になったことだろうが、そのギャップに伊藤は悩んだのではないだろうか。

塾生として側で見聞してきた伊藤には、松陰の目指す国家像をぼんやりながら見ていたはずである。

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