椎の実の降る家~長州(26 ) [萩の吉田松陰]

SH3B0087.jpgSH3B0087松陰誕生地と萩の眺望
SH3B0089.jpgSH3B0089「萩市指定史跡 吉田松陰の墓ならびに墓所」
SH3B0091.jpgSH3B0091「吉井勇 歌碑」

松陰神社境内の歴史資料館だけで販売しているという本に「椎の実の降る家」と最初の目次見出しを見た。(「維新の先達 吉田松陰」(田中俊資著))

「ああ、これは松陰の生まれた家のことだな。」と私は思った。

坂道を登って来たときに墓石が樹木の間からいくつか見え、塀の壁に「椎原霊園」と書いてあった。

ここは椎の実の取れる地域なのだった。

おそらく農作物の不作の時には飢えを凌ぐために大事な実だったのであろう。

幼いころの松陰も拾って集めたという。

「松陰誕生地と萩の眺望」と書いた案内板が高杉晋作の草案の向かい側にあった。

『この地は一名「団子岩」といわれ、吉田松陰が生まれ、幼児期を過ごした所です。

ここから市内を一望すると、この小さな城下町の中から生まれた維新の活力を彷彿とさせてくれます。

萩は関が原の戦いに敗れた毛利氏が、この三角州指月山のふもとに城と町を築いたところで、江戸時代の典型的な城下町の姿を保ち、細工町、侍屋敷、商人町、寺町など、その構造を知るには最も都合のよい町であると言われています。』

誰がこの案内板を書いたのか、それは書かれていなかった。

『          勇
萩に来て
 ふと おもへらく
      いまの世を
   救はむと起つ
      松陰は誰  』

(「吉井勇歌碑 椎原(吉田松陰誕生地)」より)   
http://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/hikidashi/takuhon/html/021.htm

この石の歌碑は、高さ120cm、幅240cmの斑糲岩からできているそうだ。

『斑糲岩(はんれいがん、gabbro、ガブロ)は、深成岩の一種。
火山岩の玄武岩に対応。

有色鉱物の角閃石や輝石を多く含み、岩石全体が黒っぽい(ペグマタイト質のものは斜長石の白い部分が目立つことがある)。
磁鉄鉱なども含んでいることがある。
無色鉱物はほとんどが斜長石で、アルカリ長石や石英をほとんど含まない。

閃緑岩との区別は、斜長石の灰長石成分(An)の割合による(An<50が閃緑岩、An>50が斑れい岩)。

アルカリ長石が含まれるようになるとモンゾ斑糲岩、石英が含まれるようになると石英斑糲岩、アルカリ長石と石英の両方を含むと石英モンゾ斑糲岩となる。
中略。

イタリアの工芸家が呼んでいた石材名gabbroに由来するが、初めは蛇紋岩や輝石からなる特殊な火成岩に使われていた。

これを岩石名としたのは1810年、フォン・ブッフで、初めは蛇紋岩や輝石からなる特殊な火成岩の名であったが、後になって、今日のような意味で使われるようになった。

斑糲岩という難しい訳語を作ったのは、小藤文次郎(1884年〈明治17年〉)。
糲は「くろごめ」玄米のことで、粒状で黒い斑点のある石という意味らしい。

明治初期にはまた、「飛白石・カスリイシ」の訳も行なわれたが、これはかすり模様という意味でつけられた名前である。

どちらも、白い斜長石と黒い輝石が白黒の斑点に見えることを意味する。』(斑れい岩(Wikipedia)より)

吉井勇は学生時代に与謝野鉄幹らと天草に旅し、神父を訪ねている。

『中略。

天草の南端大江に着きました。
途中が細い道とかあったので小高い丘の上の教会が見えたときには感激でした。

車を駐車場に留めて坂を上っていくと大江カトリック教会の石碑が立っています。

この教会は北原白秋・与謝野鉄幹・木下杢太郎・平野万里・吉井勇の五人の詩人が訪れたことでもよく知られています(五足の靴)

彼らの旅の目的は大江天主堂のガルニエ神父に会うことでした。
地元の人から「パアテルさん(神父さん)」と親しみを込めて呼ばれていたガルニエ神父に会った五人は、秘蔵の十字架やメダルを見せてもらったり、踏絵の『二度踏』の話を聞かせてもらったりしました。

そのガルニエ神父は明治25年(1891年)25歳で来日し昭和8年に私財を投じてこの白亜の天主堂を建立しました。
そして、祖国フランスに帰らず生涯をこの地に捧げました。』

『『五足の靴』とは明治40年(1907)8月新詩社主幹の与謝野寛と木下杢太郎(本名太田正雄)、北原自秋(本名隆吉)、平野万里、吉井勇の5人が九州のキリシタン遺跡を巡った時の紀行文の題名である。』
(「毎日新聞社 シリーズ日本の大自然」より)
http://ito-no-kai.la.coocan.jp/300_index/311_national-park/22_unzen-amakusa.html

吉井勇らは学生時代に東京から天草までガルニエ神父に会いに行っている。

吉井の歌碑の中で、『松陰は誰』という言葉が際立って目立つ。

神の代理、預言者などというニュアンスなのだろうか、それとも聖人と言いたいのであろうか。

松陰の死により革命は達成された。
それは殉教死と言えるものかも知れない。

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