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高杉晋作草庵跡地~長州(25) [萩の吉田松陰]

SH3B0083.jpgSH3B0083墓地の右上に石碑
SH3B0085.jpgSH3B0085「高杉晋作関係略年表並草庵入居の年月日」
SH3B0086.jpgSH3B0086「高杉晋作草庵跡地」

松陰生誕地の道路向かいの坂にあった石柱。

それは意外にも、「高杉晋作草庵跡地顕彰碑」と大書した石碑であった。
「教育長 林 秀宣 書」と小さい文字が見えるが、或いは違っているかも知れない。

しかし、「高杉晋作草庵跡地顕彰碑」はひげ文字に少しにていて馬鹿でかい漢字を彫っているので、こちらは見間違うことはない。

1862年1月2日 上海行きを命ぜらる。(江戸藩邸にて)
4月29日 長崎を出帆上海へ向かう。
7月14日 上海から帰国。
12月12日 イギリス公使館焼打す。

1863年1月5日  吉田松陰の遺骨を改葬
3月15日 十年間の暇方を請い許される。
4月10日 萩に帰り松本村草庵入居
6月6日 下関で奇兵隊を組織
8月16日 教法寺事件
9月12日 奇兵隊総督を免ぜられる。
10月1日 百六十石を給せられ奥番頭役に任ぜられる。

1864年1月28日 来島又兵衛に迫られ、脱藩して京へ向かう。
2月25日 萩に帰る
5月27日 野山獄に投ぜられる。
6月21日 出獄、座敷牢に謹慎
8月8日 連合艦隊との講和談判にあたる。
8月14日 講和本約締結
10月5日 長男梅之進(東一)生まれる。
10月25日 自宅閉居から脱出、九州に亡命
12月15日 下関に帰り、功山寺に挙兵

1865年 1月14日 萩俗論党と開戦
2月2日 クーデター成功、藩論統一される。
3月26日 洋行を志すが、グラバーから説得され中止して、下関開港に奔走する。

晋作は2ヶ月半も上海にいたのである。

7月14日に上海から帰国して、それから江戸へ向かい5ヵ月後の12月12日にイギリス公使館を焼打ちしている。

そのあとで吉田松陰の遺骨を改葬し、その3ヵ月後に萩に帰り松本村草庵に入居している。

考えるより前に行動しようとする晋作の姿は、師の松陰の教えを実践したものに見える。

『1862年6月2日、幕府の公式の貿易船「千歳丸」というバーク型帆船が上海に到着した。数年前から幕府は和船(といっても西洋タイプのスクーナーが多かった。)を杭州や秦皇島に派遣していて中国(清)の情報収集にあたらせていた。

だが交易を表向きにも標榜し中国へ向かったのは鎖国以来始めてだった。
またこの時が上海への始めての訪問だった。

千歳丸自体もイギリス船を買い上げたもので船長リチャードソン(生麦事件で殺害されたのもリチャードソンだが関係はわからない。)

以下イギリス人によって運航されていた。
この渡航もイギリスに歓迎され上海の英字紙に報道されている。

高杉は藩命により、幕臣犬塚栄三郎の従者の資格で派遣され、目的は西洋諸国の上海の実情把握だった。

この時幕臣の他、薩摩の五代友厚、佐賀の中牟田倉之助、大村の峰源蔵などが参加していた。

幕府の外様藩をむしろ外国の実情に触れさせた方が良いという判断や、貿易・外交にも関与させるべきだとの方針は、元来この国のもつ明るい開明的性格を感じさせる。

中牟田は後の海軍中将であるが英語ができたうえ、長崎の海軍伝習所にいて操艦術にも通じていたと言う。
高杉は中牟田を大いに利用した。

「ヨーロッパ諸国の商船や、軍艦のマストが港を埋め尽しているさまは森の如く、陸上には諸国の商館が壁を連ねること城郭の如くその広大なことは筆舌に尽くしがたい。」

「この地はかって英夷に奪われた場所であって港が賑わっているといってもそれは外国船が多いためである。中国人の居場所を見れば、多くは貧者で不潔な環境に置かれている。わずかに富んでいるのは外国人に使役されている者だけである。」
と高杉は「遊清五録」に記す。』
(「高杉晋作の見た上海と太平天国」より)
http://ww1.m78.com/topix-2/sinsaku%20takasugi.html

そのあとで、晋作は実質的な支配者役の「奥番頭役」となり、藩主のお側で実権を掌握することに成功している。

しかし藩論沸騰し、結果的に晋作は軍事クーデターにより藩論を統一し倒幕へと舵を切った。

実はこの1年後の1863年に、アメリカで「黒人の奇兵隊」が解禁され、南軍側軍隊に勝利し、黒人軍隊の勇敢さを世界へ知らしめ、黒人奴隷解放のきっかけにもなっている。

銃で装備した軍隊であれば、黒人でも白人部隊に勝てることを証明したのである。
黒人だけの軍隊をマサチューセッツ第54連隊といい、映画「グローリー」のモデルにもなった。

その機運や手法は、英米仏の商人を通じて上海にも伝わったはずだ。
晋作はそれらを上海の2ヵ月半の生活で学んだのではないだろうか。

『南北戦争では黒人の従軍を認めると境界州も連邦を離脱するおそれがあるため、当初黒人の従軍は認められなかった。

しかし、南部から逃亡奴隷の流入が続き、かつ、兵力増強の必要性が増し、リンカーンも方針を変更し、1863年に黒人の従軍が解禁された。

黒人は臆病で役に立たないとの偏見が強く残る中、黒人のリーダーたちはこの方針変更を強く支持し、アフリカ・ミーティング・ハウスなどで兵の募集が行われた。

こうして編成された黒人だけのマサチューセッツ第54連隊は、白人指揮官Robert Gould Shaw(ロバート・ゴールド・ショー)大佐の指揮の下、チャールストン攻略作戦に参加し、チャールストン湾入口のFort Wagner(ワグナー砦)を攻撃することとなった。

1863年7月18日の戦闘は激しく、連邦軍は1,600名の死傷者を出したが、マサチューセッツ第54歩兵連隊は勇敢に戦い、多くの人々の黒人に対する偏見を一掃した。

連隊長のショー大佐は戦死し、William Carney(ウィリアム・カーニー)軍曹は3度も銃撃されながら軍旗を守った功績で黒人として初めて米軍最高の名誉であるCongressional Medal of Honor(議会名誉勲章)を受章した。

マサチューセッツ第54連隊の功績を記念して、ボストンコモンには、Augustus Saint-Gaudens(オーガスタス・セント・ゴーデンス)制作のブロンズのレリーフが置かれている。』

銃で武装した集団は、それが武士以外の人間であっても強力な軍事力となる。
1863年7月18日の戦闘結果は北軍勝利の分水嶺となっていった。
黒人を使えない南軍に対して、北軍の軍事能力は倍増するはずである。

農民や商人を使えない徳川幕府と、それらを教育し軍隊化する薩長土肥の軍隊のどちらが勝利するか、フランスの公使ロッシュを除き欧米列強には自明なことではなかっただろうか。

日本における農民奇兵隊の実践は、その1年後になる。

1864年(元治元年)12月15日、高杉晋作が功山寺決起し馬関に進軍した。
そのとき農民たちが手に持っていた銃はアメリカ南北戦争終結であまった中古の銃や行き先を失った新品の優秀な銃であったはずだ。

坂本龍馬が、グラバーを通じて大量に輸入し長州へ渡したという一部の事実だけは、日本人の多くにドラマ化されて知らされている。

アメリカ南北戦争終結と日本の戊辰戦争勃発の関わりなど、欧米列強に「不都合な真実」は隠されている。

晋作はすべてを己の目で見て、学び、考え、そして実践したのである。
一番精神統一して深く「考えた」場所は、おそらくここの松陰誕生地の道路向かいにある草庵の居間であったと私は思う。

亡き松陰の心境を慮りながら、松陰が見ながら育った光景を見下ろしつつ、己の身の振り方に決心を付けたのであろう。

やがて夕日が沈み、指月山の上に出た月を晋作は眺めたことだろう。

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コメント 3

としぼー

コメントいただきありがとうございました。
9月初旬より、偶発的なことも重なりまして、戦いに突入いたしました。子会社の総務でありながら親会社から出向のトップに刃を突きつけると言うこととなりました。傲慢・驕慢・不正・脅し等ありとあらゆる傍若無人でありましたが、消すまでの確証が得られずいたづらに時間を労しました。しかし、親会社監査役の真摯な対応をいただき決着をみました。
しかしながら、このようにわかりやすい人物を見抜けない大多数に決着をつけた今も忸怩たる思いがします。何もわかってはいない。
貴殿の文書に心を熱くしました。励まされました。実はまだ戦いは終わっておりません。明日から完璧に追い込まねばならないと考えております。これは事件であると思うからです。
大東亜戦を語るまでもありませんが、苦労された方々の思いが通じることは無いのかと涙したこともございました。
もうひとがんばり致します。
御礼を申し上げたい気持ちです。
by としぼー (2011-01-04 20:07) 

チャレンジ

としぼーさん、手堅くがんばってください。
家族がいますので、家族への影響もある程度配慮は必要でしょう。
破れかぶれなら、全財産つぎ込んで裁判闘争となりますが、派手ではあるけど、散々な目にあう可能性もあります。

とことん正義を追求するならば、司法を利用せざるを得ませんが、私は旦那の正義は旦那の世界で求めるべきもので、家族まで巻き込むべきではないという結論に至りました。

そのため最後の一押しがなく、ラストシーンはだれ気味になります。

それでいいと私は思っています。

自分が納得できていますので、幕も引きました。
何もしないで退社していれば、いつまでたっても胸のつかえが降りない人生になったと思います。

言うべきことは言った。

正義かどうかの判断は、当事者同士ではなかなか解決できない。
最後は、それでよいという結論でした。

裁判に持ち込めば多少の打撃を与えることになったでしょうが、当方も世間体やら金銭面、時間面、精神面で負担が生じたことでしょう。

私が独身ならばすべてをかけてやっつけますが、なかなかそうもいかないのが大人の世界です。

それを知っているから敵も悪いことをして態度がずうずうしいのでしょう。
戦後半世紀もかけてそういう程度の社会しか築けかなったことに私たち団塊の世代の責任は重大ですね。

納得できるかどうか、納得できたかどうか、その判断に結構神経を使いました。落ち着いてきた今では納得して矛を納めたと自覚できます。

健全に明るく元気にお励みください。家族も大事に考えてください。
by チャレンジ (2011-01-10 18:50) 

としぼー

ありがとうございます。結果は非常に良い決着を見ました。家族に付いてですが、おっしゃるとおりと思います。今回は私の言うことに信憑性を思っていただかなければ解決できなかった脇です。(真実の証拠・証言を得るに相当以上の時間と労力をさいていただけました)しかし、このように良い方向に進むとは考えておりませんでした。ですから当初の段階で最悪の場合のスイッチを既に入れておきました。いわば事件の線から動かすということです。それが動き出しております。それはあの当時に、いわば、切羽詰っての判断ですから現在でも当然のこととは存じております。場合により大きなこととなるかもしれません。加害者は精神的に病んでいると思っています。素人ですからあてにはなりませんが自己愛性人格障害と同様の性格です。それを思うとき、その親のありようを空想します。父は戦後の経済成長の只中で家にもろくすっぽ帰らず業者と銀座等を闊歩し目もくらむ羽振りだったようです。それを垣間見たときに尊敬したと彼は言った事があります。残された母と子の関係が、あまりにもいびつになったこともあったろうかと、そのことが人格障害をおこさせたのではないか、これは空想です。戦後の成長がもたらした負の部分は、いろいろなところに隠れているなあという感想を持ちます。
by としぼー (2011-01-15 07:32) 

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