指月山の一族~長州(21) [萩の吉田松陰]
SH3B0069左上の木々の間から二人の銅像が見える
SH3B0070指月山とシュロのツーショット
SH3B0077基礎の石組が家屋配置跡(指月山を望む)
ある程度は予想していたことだが、松陰生誕の地にシュロの木を発見して正直驚いている。
しかも、そのシュロは家屋の玄関口に植えてある。
玄関を出たときに松陰からシュロはどう見えるのか?
それが上の写真である。
指月山とシュロのツーショットが見えるのだ。
毎日この光景を繰り返し見ることになる。
まるで指月山の一族と言ってもよいくらいの視覚効果である。
松陰が生まれた杉家が大内義隆の遺児の末裔や親族だったと仮定しよう。
毛利一族が家康に追われて広島から萩へ移封されてくる前は、大内家ゆかりのものは指月山の麓に住んでいたはずだ。
大内義隆自害(1551年)から関ヶ原の戦い(1600年)までの少なくとも約50年間は指月山の麓の城に居住していたはずだ。
なぜならば、この指月城は吉見正頼によって作られたもので、その城の主の正室が大内義隆の姉であったからだ。
山口で父の大内義隆が自害したのち、その遺児と護衛団が叔母の所有する萩の城へと落ちて行く光景は、当然過ぎるほど当然のことである。
『(吉見正頼は)石見国津和野三本松城に本拠を置く国人領主であるが、毛利輝元が慶長九年(1604)に萩城を築城する以前に、すでに萩の指月に居館を設けて』いたのである。
(「萩のシンボル「指月」について」より、一部加筆して抜粋した。)
http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/siduki.htm
吉見正頼にとって、萩の指月山の城は別館であった。
1604年、半世紀近く住み慣れた指月山を離れて、大内義隆の遺児と親族、家臣団はこの山の麓へと移住してきたのである。
そうせざるを得なかったのである。
大内氏の本姓は多々良氏である。
彼ら自身は、百済の琳聖太子の後裔であることを自称していた。
松陰にとって、毛利氏は本来の主ではなかったはずだ。
『杉家の次男に生まれた松陰(当時は寅次郎といった)は、吉田家の養子に出された。
養父が早死にしたせいもあり5歳の時から吉田家の家督を継いだ。
この吉田家、実は藩の山鹿流兵学(学祖は山鹿素行)の師範家であったため、わずか8歳の時に藩校の明倫館で教授見習いとなり、10歳で藩主の御前で講義をした。』
「吉田松陰(よしだしょういん1830-1859)」より)
http://toyama.cool.ne.jp/miyamiya1969/lesson_history_syouin.htm
松陰が10歳のときに毛利藩主の御前で兵学を講義した逸話は有名である。
つまり、10歳までの間に玉木文之進はあの坂の下にある松下村塾で虎之助(松陰)を鍛え上げたのである。
玉木家での激しすぎる訓練は、おそらく3歳頃から10歳までであろう。
約7年間で、後に偉人となる人間を作りあげたことになる。
母親が「虎や、死んでお仕舞い」と叫んだのは、虎が一番かわいい盛りの年頃のことではなかったか。
3歳、4歳の幼子は、大内家再興の夢を担って激しく鞭を打たれたのである。
SH3B0070指月山とシュロのツーショット
SH3B0077基礎の石組が家屋配置跡(指月山を望む)
ある程度は予想していたことだが、松陰生誕の地にシュロの木を発見して正直驚いている。
しかも、そのシュロは家屋の玄関口に植えてある。
玄関を出たときに松陰からシュロはどう見えるのか?
それが上の写真である。
指月山とシュロのツーショットが見えるのだ。
毎日この光景を繰り返し見ることになる。
まるで指月山の一族と言ってもよいくらいの視覚効果である。
松陰が生まれた杉家が大内義隆の遺児の末裔や親族だったと仮定しよう。
毛利一族が家康に追われて広島から萩へ移封されてくる前は、大内家ゆかりのものは指月山の麓に住んでいたはずだ。
大内義隆自害(1551年)から関ヶ原の戦い(1600年)までの少なくとも約50年間は指月山の麓の城に居住していたはずだ。
なぜならば、この指月城は吉見正頼によって作られたもので、その城の主の正室が大内義隆の姉であったからだ。
山口で父の大内義隆が自害したのち、その遺児と護衛団が叔母の所有する萩の城へと落ちて行く光景は、当然過ぎるほど当然のことである。
『(吉見正頼は)石見国津和野三本松城に本拠を置く国人領主であるが、毛利輝元が慶長九年(1604)に萩城を築城する以前に、すでに萩の指月に居館を設けて』いたのである。
(「萩のシンボル「指月」について」より、一部加筆して抜粋した。)
http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/siduki.htm
吉見正頼にとって、萩の指月山の城は別館であった。
1604年、半世紀近く住み慣れた指月山を離れて、大内義隆の遺児と親族、家臣団はこの山の麓へと移住してきたのである。
そうせざるを得なかったのである。
大内氏の本姓は多々良氏である。
彼ら自身は、百済の琳聖太子の後裔であることを自称していた。
松陰にとって、毛利氏は本来の主ではなかったはずだ。
『杉家の次男に生まれた松陰(当時は寅次郎といった)は、吉田家の養子に出された。
養父が早死にしたせいもあり5歳の時から吉田家の家督を継いだ。
この吉田家、実は藩の山鹿流兵学(学祖は山鹿素行)の師範家であったため、わずか8歳の時に藩校の明倫館で教授見習いとなり、10歳で藩主の御前で講義をした。』
「吉田松陰(よしだしょういん1830-1859)」より)
http://toyama.cool.ne.jp/miyamiya1969/lesson_history_syouin.htm
松陰が10歳のときに毛利藩主の御前で兵学を講義した逸話は有名である。
つまり、10歳までの間に玉木文之進はあの坂の下にある松下村塾で虎之助(松陰)を鍛え上げたのである。
玉木家での激しすぎる訓練は、おそらく3歳頃から10歳までであろう。
約7年間で、後に偉人となる人間を作りあげたことになる。
母親が「虎や、死んでお仕舞い」と叫んだのは、虎が一番かわいい盛りの年頃のことではなかったか。
3歳、4歳の幼子は、大内家再興の夢を担って激しく鞭を打たれたのである。
2011-01-04 07:36
nice!(0)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0