「しげつざん」か「しづきやま」か~長州(19) [萩の吉田松陰]




石垣の上にシュロの若木が生えていた。
昔あったシュロの木が伐採されて、わずかに残存している苗か種が若芽を出したのであろう。
坂道は桜の木がまばらにあるが、竹やぶもある。
竹は孟宗竹である。
「孟」の字で思い出したが、松陰は号であるが、別の号で「二十一回猛士」ともいう。
『幼時の名字は杉(本姓不明)。
幼名は虎之助。
吉田家に養子入り後、大次郎と改める。
通称は寅次郎。
諱は矩方(のりかた)。
字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。
松陰の号は寛政の三奇人の一人で尊皇家の高山彦九郎のおくり名にちなんでつけられた。
また、「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、および、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解でき、これらを組み合わせると「二十一回」となることによりつけられている。』
『名字は杉(本姓不明)』と書いてあったが、姓がなかった可能性もあるだろう。
つまり士族ではなく農民か足軽以下のような存在だったのであろうか。
「訳ありの杉家」という印象を持つ。
もし大内義隆の遺児が山口を逃れ、玉木氏(環氏)となって萩の山奥に隠れたとすれば、その大内氏遺臣たちは農民に身をやつしながら御曹司の再起を支えて生きてきた可能性があるかも知れない。
関が原のあとで、広島から家康に追われて萩へやってきた毛利家家臣団たちは城下に住み、松陰や玉木家は城から数キロはなれた山すそに住んでいる。
高杉晋作も木戸孝允も、広島から移ってきた家臣団の末裔だろう。
坂道の左側の木々の上方に、遠く萩城を包む指月山(しづきやま)の頂(いただき)がのぞいている。
「しづきやま」と私は送り仮名を振ってしまったのだが、「しづきさん」の可能性があるため調べてみることにした。
萩城を別名指月城(しづきじょう)と読むことは以前から知っていたので、「しづき」にはかなり自信があった。
しかし、調べてみると、何と「そこ」がぐらつき始めた。
『すなわち、「指月」という山名は、川島にある善福寺が築城以前にはこの地(指月山麓)にあって、山号を「指月山」といったので、それに基づいているのであるが、ただ、その当時、善福寺の山号を「シヅキ山」といったのか「シゲツ山」といったのかは知らない、とことわっている。
現在、善福寺の山号「指月山」は「しげつざん」と読むのであり、「しづきさん」と読めば、いわゆる重箱読みとなるので、そのようなことはなかったはずである。
少しややこしくなったので整理しておくと、山名の「指月山」は「しづきやま」と読むが、善福寺の山号「指月山」は「しげつざん」と読むということである。
ところで、「山号」について『岩波仏教辞典』には「寺名の上につけられる〈山〉の称号。中国で、寺の所在を示すために用いたのにはじまる。」とあるので、山の山名があって、それに基づいて寺の山号があるのが普通であるが、近藤清石は「指月山」についてはそうではないことを強調して「指月ノ山名アリテ、寺家ノ山号ニセシニハアラズ。開基翔天源ノ命名セシナルベシ。」といっているのは何故かというと、「指月」という言葉が仏教用語だからである。
仏教用語であるが故に善福寺の開山である翔天源(嘉吉元年〈一四四一〉没)が命名したに違いないと断言しているわけである。
しかし、翔天が山号を命名したのはわかるが、山名まで命名したかどうかは疑わしい。
事実、山号は「しげつざん」であるのに、山名は「しづきやま」であって読み方が異なっている。』(「萩のシンボル「指月」について」より)
http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/siduki.htm
しかも毛利家が広島から引っ越してくる前から指月山という地名はあったということである。それも陶晴賢(すえ はるかた)が滅び毛利家を利するに功績があった吉見正頼の居城があった場所ということである。
吉見正頼は陶晴賢と戦った戦国時代の武将である。
『小京都として栄えた石見国津和野を舞台に、城主・吉見正頼が、西国無双の武将とうたわれた陶晴賢と、最後の生き残りを賭けて戦う歴史小説。
津和野城攻防戦を活写した臨場感あふれる物語。』
(「生き残りを賭けて―津和野城主吉見正頼の生涯(大草貫治 (著))より)
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陶晴賢の反逆により滅亡した大内義隆であるが、その遺児や遺臣団が吉見正頼の居城付近に住みついても不思議はない。
関が原の戦いで毛利が家康に敗れたあとは、毛利が指月山を占拠したため、玉木家や杉家などは、川を渡り山の麓へと移住してきたのであろう。
軽い気持ちで「指月山」の読みを調べただけだったが、深い謎へと入り込んでいくようだ。
しかし、そこに『吉田松陰誕生と斬首の秘密』が隠されているのかも知れない。
それは私の書く街道ブログの「主題」でもある。
『そこで山名を「指月山」としたのは誰であるかという謎に挑戦しなければならないが、善福寺の山号としてではなく、山名あるいは地名として出てくる「指月」について調べてみると、これまで最も古いと考えられたものに吉見正頼(一五一三~八八)の息女の死亡に関する記事が『防長風土注進案 二一』(山口県文書館、昭和三十九年刊)の鳴滝山妙性院(現 禅林寺)の項に、
往古吉見正頼様御代御女儀方之御菩提処ニ御建立、御法名見室妙性 大姉ト申候ニ付妙性庵ト被仰付、寺中ニ御石塔有之候、御位牌之裏ニ、 天正十三年乙酉八月廿六日萩津指月死所ト御座候事
とある。
すなわち吉見正頼の息女(法名、見室妙性大姉)の菩提のために妙性庵が建立され、その寺中に石塔があり、位牌の裏に「天正十三年乙酉八月廿六日萩津指月死所」とあるといいうのである。
旧むつみ村の禅林寺に現存する石塔(墓)にも「妙性院殿」「吉見政頼息女」「萩津指月死所」「天正十三乙酉八月廿六日」の刻銘がある。
ところが、本年(平成十六年)十一月十一日に萩博物館開館と萩開府四〇〇年を記念して開催された特別展「毛利輝元と萩開府」で明らかとなった新資料に「吉見正頼銘文琵琶」(個人蔵)がある。
この琵琶の胴の内部にある墨書きの銘文に「天正八年庚辰 七月十九日長門萩之浦 於指月城下作也 吉見正頼」とあって、この琵琶が天正八年(一五八〇)に長門国萩浦の指月城下で吉見正頼によって作られたものであることが知られる。
正頼は石見国津和野三本松城に本拠を置く国人領主であるが、毛利輝元が慶長九年(一六〇四)に萩城を築城する以前に、すでに萩の指月に居館を設けていたのであり、銘文中の「指月城」とは正頼の居館のことであろう。
恐らくこれが地名としての「指月」の初見と思われる。
また、文禄の役に出陣した吉見元頼の家臣下瀬頼直の陣中日記(『朝鮮渡海日記』山口県文書館蔵)に
天正廿年壬辰之日帳
三月八日ニ津和野を御立にて、(中略)九日晝程よりうちに、萩浦 御着被成、御船御覧候。(中略)夫過候て指月へ御着被成、諸給人寺 家社家殘らず御出候事
とある。
これは、豊臣秀吉が文禄の役をおこしたとき、吉見広頼の子元頼がこれに応じて、天正二十年(一五九二)三月八日に津和野を出発し、九日昼頃に萩に着き、指月の居館に着いて家臣や寺社家を引見したという記事である。
これらに見られる「指月」は、元亀元年(一五七〇)に津和野城主吉見正頼が家督を広頼に譲って萩の「しづき山」の麓に隠棲し、それ以来、吉見氏の居館が置かれていた場所の地名である。
このころ指月に吉見氏の居館が置かれていたのは、輝元が萩の指月に築城するまで萩地方は吉見氏の領地だったからに他ならない。
実は、陶晴賢が滅び周防、長門両国が毛利氏の手に入るのに吉見正頼の功績があったのであり、その功によって毛利元就から萩地方を含む阿武郡一帯を贈られていたのである。
いずれにしても、地名としての「指月」は吉見氏との関係で最初に出てくるのであるから、「しづき」という仮名の山名あるいは地名に、善福寺の山号である「指月」(シゲツ)という漢字を無理に(重箱読みして)当てはめたのは吉見氏ではないかと疑いたくなってくる。』
(「萩のシンボル「指月」について」より)
http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/siduki.htm
私は吉見正頼の息女の菩提寺の名にある「妙性庵」の「妙」の字に釘付けになった。
京都・妙心寺の春光院(しゅんこういん)には、重要文化財の南蛮寺(なんばんじ)の鐘が保管されている。
織田信長の保護のもと、イエズス会を中心としたキリスト教の布教拠点として京都に南蛮寺が建立され、ポルトガルで鋳込まれた青銅製の鐘が置かれていた。
信長失脚後、キリシタン禁令の影響を受け南蛮寺は廃止され、妙法寺春光院が南蛮寺の鐘を引き取った。
一方、時代は下って徳川三代将軍の時代、大奥で女房たちにキリシタンと間違えられ将軍家光に告発されそうになったお奈(なあ)は、父であるキリシタン大名牧村利貞によって建立された京都・妙法寺の雑華院へ飛び込み得度を受け、そこで出家して祖心尼となった。
将軍徳川家光の禅の教師である祖心尼こそ、兵法学者「山鹿素行」を育てた女性である。
幕末の吉田松陰は山鹿素行の末裔に兵法を直接習ったが、山鹿素行自身は赤穂藩お抱え時代に大石内蔵助にも兵法指導をしている。
山鹿流陣太鼓は能や歌舞伎での創作だといわれているが、兵法指南をしたことは事実のようである。
また、織田信長を直接手を下して殺害したのは明智光秀の親族で重臣の斉藤利三といわれているが、その娘お福はお奈(祖心尼)の義理の叔母である。
お福は家康の子をはらむが、出産してから秀忠の子として育てたと言われている。
それが家光である。
お福は、実子でありながら「家光の乳母」として家光を育てたのだが、後に大奥の実権を握り春日局となった。
私の頭の中では、「妙」の文字一つで多くのキリシタン関係者の縁がつながっていく気がする。
或いは、吉見正頼の息女もキリシタンではなかったか。
陶晴賢の居城若山城は、萩とは反対側の瀬戸内海側にある。
瀬戸の海を見下ろす標高217mの若山に築かれた山城である。
若山城は廃城になっていて若山の山頂には天守閣跡を示す石碑しか残っていない。
しかし、山城への入り口付近に大きなシュロの木が幾本も並んでいるのを見たことがある。
その光景を見たとき、私は陶氏やその家臣団はキリシタンではないかと直感した。
陶氏の主人である大内義隆は、ザビエルを保護し山口での本格的キリスト教布教を保護した日本最初の大名である。
陶氏一族がいち早くザビエルの説教を聞き、家族や家臣たちの多くが洗礼を受けたことは想像に難くない。
しかも当時ポルトガル宣教師や商人と近づくことは、武将にとっては生き残りの条件でもあった。
硝石と鉄砲や大砲を輸入し、自らの軍事力を強化できるようになるのである。
その典型が織田信長である。
自らは信者にならずとも、家族や家臣の多くが信者になれば、火薬や兵器の流通経路を確立できる。
陶晴賢と吉見正頼の争いは、中国地方で覇権を目指す毛利を介してのキリシタン武将同士の戦いであったのではないか、と推理している。
吉見正頼の息女の菩提寺の名前にある「妙」の字が、私にそのきっかけを与えてくれた。
『毛利元就との戦いと(陶晴賢の)最期
天文21年(1552年)、義隆の養子であった大内義長(大友晴英といい、当時の豊後大友氏当主大友宗麟の異母弟にあたる。生母は大内義興の娘で義隆の甥)を大内氏新当主として擁立することで大内氏の実権を掌握した。
この時隆房は、晴英を君主として迎えることを内外に示すため、陶家が代々大内氏当主より一字拝領するという慣わしから、晴英から一字をもらって、晴賢と名を改めている。
その後、晴賢は大内氏内部の統制という目的もあって徹底した軍備強化を行なった。
北九州の宗像地方を影響下に置くため、宗像氏貞を宗像に送り込み、山田事件を指示したともされている。
しかし、この晴賢の政策に反発する傘下の領主らも少なくなかった。
天文23年(1554年)、それが義隆の姉を正室とする石見の吉見正頼と安芸の毛利元就の反攻という形で現われたのである。
晴賢は直ちに吉見正頼の討伐に赴くが、主力軍が石見に集結している隙を突かれて毛利元就によって安芸における大内方の城の大半が陥落してしまった。このため、晴賢は窮余の一策として宮川房長を大将とした軍勢を安芸に送り込むが、折敷畑の戦いで大敗してしまい、安芸は毛利家の支配下となった。
弘治元年9月21日(1555年10月6日)、晴賢は自ら1万の大軍を率いて、安芸厳島に侵攻し、毛利方の宮尾城を攻略しようとした。しかし毛利軍の奇襲攻撃によって本陣を襲撃されて敗北し、毛利元就に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れて、退路も断たれてしまい、逃走途中で自害した。享年35。なお、晴賢の遺骸は、桜尾城で首実検の後、洞雲寺に葬られた。』(陶晴賢(Wikipedia)より)
陶隆房は改名し後に晴賢と称したが、その「晴」の字は豊後(大分)のキリシタン大名大友宗麟の異母弟の名から取っている。
晴賢の軍備強化はどの流通経路を利用して行われたか?
私はポルトガル商人経由だろうと思う。
興味深いことだが、石見の吉見正頼の正室は、「大内義隆の姉」だった。
つまり、吉見正頼の居館でもあった萩の指月城(しづきじょう)は、亡命した大内義隆の遺児たちが辿りつけば彼らの仮住まいとなっていただろう。
そこは実の叔母の家である。
しかし、毛利元就が萩城に移封されてから、大内義隆の遺児たちは城から離れた場所へと移住しなければならなかったはずだ。
その場合、萩城から見て「川向こうの山すそ」へと向かうことになるだろう。
陶晴賢の指示で起こしたとされる「山田事件」のことは良く知らなかった、
これだけでいくつかの記事になるほど、奥が深い出来事のようだから別の機会に分析することにする。
『宗像正氏の正室の山田局と宗像氏貞の間で対立が起き、赤間山田の地に於いて陶晴賢の指示で、石松典宗によって山田局・山田局の娘で宗像氏男の正室の菊姫・4人の侍女が次々と惨殺された。
宗像氏の一連の内紛全体のことを宗像騒動という。』(山田事件(Wikipedia)より)
陶晴賢が主人の大内義隆を殺害したのは天文20年(1551年)のことである。
大内義隆、陶晴賢の時代は松陰の時代から300年も前の古い歴史である。
しかし、毛利氏を含めてこの三者は複雑に絡み合っている。
萩という山陰の片田舎から、なぜ日本革命を発火させるほどの偉人『松陰』が突然現れたのか?
私には300年の萩の歴史とそのことが無縁ではないと思われるのである。
2011-01-03 22:45
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