松陰誕生地への分岐(その1)~長州・萩の吉田松陰(14) [萩の吉田松陰]

SH3B0043.jpgSH3B0043自己主張の強いシュロの木(前述分の背面)
SH3B0044.jpgSH3B0044昔の宅地は奥行きが深い
SH3B0045.jpgSH3B0045道の分岐に右手にシュロの木

先ほどの「自己主張の強いシュロの木」が気になり、振り返って見た。
横から脇道が細いメイン道路へ交差している。

人家の門扉を入って敷地の右端、つまり脇道を歩いてメイン通りへ出てくる人への交通標識の役割を果たしているように見える。

このシュロの木が示す道路標識のような役目は、奥州街道のシュロの木にも感じた。

今でも東武鉄道の駅舎付近には背の高いシュロの木が目立つ。

古代オリエントのアケメネス朝のダレイオス1世(大王)の駅伝整備ではシュロの木は利用されていたのだろうか。

東武鉄道は信仰篤い鉄道会社である。
東武鉄道の西新井駅に降りると、大師線という単線が分岐している。
そして大師線はたった一駅だけある。

2列車両の電車がホームへ入ってくる。
次の駅は「西新井大師」で終点である。

弘法大師(空海)が旅行ビジネス、宗教ビジネスに長けていたことがそこでは体感できる。

話は変わるが、さいたま市(旧大宮市)にある武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)ではシュロを見つけるのは苦労した。

『氷川神社(ひかわじんじゃ)は、埼玉県さいたま市大宮区高鼻町一丁目にある神社である。
足立郡を中心に武蔵国(東京都・埼玉県)各地にある氷川神社の総本社である。式内社(名神大)、武蔵国一宮、勅祭社で、旧社格は官幣大社。大宮の地名は氷川神社を「大いなる宮居」すなわち「大宮」と称えたことに由来する。
主祭神は須佐之男命・奇稲田姫命・大己貴命。
他の氷川神社と区別するために「大宮氷川神社」とも呼ばれる。

一般に武蔵国の一宮は当社とされているが、大國魂神社(六所宮)の祭神や南北朝時代の『神道集』の記述では、多摩市の小野神社を一宮、あきる野市の二宮神社(旧称小河大明神)を二宮、氷川神社を三宮としており、今のところ中世まで氷川神社を一宮とする資料は見つかっていないとされる。

室町時代に成立した『大日本国一宮記』では氷川神社が一宮とされており、室町時代以降、当社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したのではないかと考えられている。
中略。

社伝によれば、孝昭天皇3年(紀元前473年)4月に創建されたというが、倭奴国王印が1世紀中頃のことであり、卑弥呼が3世紀前半の人物であり、倭の五王が5世紀の人物たちである、ということを考えると、氷川神社の創建が紀元前5世紀であるとは考え難いという意見もある。「国造本紀」によれば、景行天皇の代に出雲の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したと伝える。

本社には、景行天皇の皇子・日本武尊が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って当社へ詣でたところ、立てるようになったという伝説が残されており、このことから本地域を足立と称するようになったとされる。以下略。』(氷川神社(Wikipedia)より)


紀元前5世紀の建立になる関東で最初の神社である。
本殿右手の神社敷地外にあたる杉林の中に1本シュロの木が立っていた。
おそらく昔は大きな境内の敷地内であっただろうが、その後の区画変更などで敷地外へと追いやられたのであろう。

しかし、中山宮(二ノ宮)から氷川女体神社(三ノ宮)へと歩いているときに、交差点には曲がるべき方向を示すかのように大きなシュロが立っていたことを思い出す。

氷川女体神社の境内には沢山のシュロの木が見られた。

女体の意味は何だろう。

『大宮(さいたま市大宮区)の氷川神社を「男体社」とし、当社を「女体社」としたものである。

女体の名の通り、奇稲田姫命(大宮氷川神社の祭神である須佐之男命の妻)を主祭神とする。
ほかに三穂津姫命・大己貴命を配祀する。

歴史
社伝では、崇神天皇の時代に出雲大社から勧請して創建されたと伝える。
『大日本地名辞書』では、式内「武蔵国足立郡 多氣比賣神社」の論社としているが、多氣比賣神社は桶川市篠津の多氣比賣神社とする説が有力である。

近世の文書や拝殿の額に「武蔵国一宮」と記されている。
これは大宮の氷川神社と当社、および中山神社(簸王子社)の三社を一体のものとして、大宮の氷川神社が武蔵国一宮であることから当社もそれに含まれると解釈したものである。
現在は、氷川神社とともに「全国一の宮会」に加盟している。』
(氷川女体神社(Wikipedia)より)

「三社を一体」としている。

これから自然と「三位一体」を思い浮かべることができる。
三位は神と子と聖霊である。
或いは、神とキリストとマリアかも知れない。

紀元前に建立されたものであれば、「子」はイエス・キリストではないから「人間」ということになろうか。

この三社は、直線状に並んでおり、冬至(夏至だったかも知れない)の日にはその直線上を太陽が通過するという。

紀元前にこの国にこれだけの高いレベルの天文学と測量技術を持ち込んだのは帰化人以外に考えられない。
しかも西アジアや中近東の文化を持つ渡来民族たちの功績であろう。

エジプトには、それらの知恵と技術が古代からあったことは良く知られている。

彼らが街道のシュロの木にどういう役割を担わせていたのか、それはまだ謎である。

やがて朝日を浴びながら歩いている緩やかな坂は、道の分岐に突き当たった。
右手には、背の大変高いシュロの木がひょろひょろと聳え立っている。

分岐で迷った私は、シュロの木を見たことにより右へ行こうと「自然に」思った。

しかし、突き当たりに観光案内札が立っていた。
よく見ると、「吉田松陰誕生地は左手」だと書いてある。

私はシュロに触発された考え方を改めて、シュロの木のある方向とは反対側の左へと曲がった。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。