大陸渡来の「残虐性と斬新さ」の共存 [奥州街道日記]

井沢元彦著「逆説の日本史」(小学館文庫)第10~12巻を読んだ。
信長、秀吉、家康の時代である。

秀吉が信長の遺児たちを次々と殺して主人信長の持っていた領土を我が物にする様は凄(すさ)まじいが、家康が豊臣恩顧の家臣たちを分断しながら秀吉の遺児を殺していく様はなお凄まじかった。
大名たちが謀略の限りを尽くす戦国時代は、これが「和をもって尊しとなす」と言う倭人の歴史かと目を疑うようである。

大阪夏の陣における家康の処置を「逆説の日本史」から一部要約して抜粋しよう。

『五月八日、家康は淀殿からの助命嘆願を拒否、家臣の井伊直孝、安藤重信に命じ淀殿と秀頼の隠れている本丸北の倉を包囲させ、そして銃撃した。
突入せずに自害をさせるためだ。
やむなく自刃に至る。
享年は秀頼23歳、淀殿49歳。

淀殿は都合3度目の落城体験だった。

秀頼には千姫以外の女に生ませた一男一女がいた。

『母は秀頼の側室の伊茶(渡辺五兵衛の娘。小田原北条家の家臣成田氏の娘との説があるが、最近は渡辺氏説が有力である)。妹に天秀尼がいる。』(豊臣国松(Wikipedia)より)

女児は家康の孫の千姫養女とし、鎌倉の東慶寺に尼として入れた。
二十世住持「天秀尼」となる。

ところが家康は、男児の国松(八歳)に対しては、市中引き回しの上、京の六条河原で斬首した。

家康は吾妻鏡を愛読していた。
平清盛が温情により生かした源氏の遺児頼朝がその後どうなったかを良く知っていた。 』

秀吉の孫で八歳の男児国松を市中引き回しの上、京の六条河原で斬首する家康。
信長も秀吉も似たようなことをしている。

姓名を持つこれらの大名たちが、私には「話し合いを尊し」とする倭人の末裔にはとても見えない。
江戸時代まで天皇と庶民は姓を持っていない。
倭人がみな姓を持つようになったのは明治になってからのことだ。

維新革命があってやっと姓を持った。
つまり2000年の日本の歴史の中で、倭人は1850年間も姓を持っていなかったのだ。

大名や武士は姓を持つ。
武士の頭領とである源氏は、その姓を天皇から賜った。

姓を持つ大名たちの生き様は、大陸的な臭いがする。
彼らも倭人の風にやがて同化してくるはずだが、戦国時代はそうではなかった。

実はその少し前、つまり信長の天下統一の前に「黒船」が日本に来航している。

幕末のアメリカ艦船団を江戸時代の人々は「黒船」と称したが、実は信長の時代にポルトガル船を見た武士が「黒船」と記録したものがあると言う。
(逆説の日本史より)

また木造船に薄い鋼鉄を貼付けた「鉄甲船」を世界で始めて作ったのが織田信長だった。
石山合戦で石山本願寺城(大阪城のあるところ)に篭城する本願寺派へ毛利氏によって村上水軍が兵糧米を運び込もうとし、信長は九鬼水軍を使って撃退を試みた。
しかし、村上水軍が用いた火球のよって木造船は燃え、兵糧米派城へと運び込まれ篭城は続いた。

そこで信長は燃えない船を建造することを命じた。
鋼(はがね)を木造船の外側や甲板に貼り付けたのである。

軍艦に金属素材を利用するという「技術イノベーション」を起こしたのは、日本人の織田信長と刀鍛冶たちの業績だった。

幕末に坂本龍馬が見て驚いたアメリカの鋼鉄船「黒船」は、元はといえば侍の大先輩である織田信長のアイデアによるものだった。
龍馬は「信長の発想の大きさ」に腰を抜かしたことになる。

信長の構想という視点に立てば、300年を経ての里帰り顔見世興行といえるだろう。
天国の空から、黒船に腰を抜かす龍馬の姿を見ながら、信長は笑ってみていたことだろう。

織田信長が作らせた鉄甲船を見て、イエズス会の宣教師たちは日本人がそういうものを作ったことに大変驚いている。
鉄甲船に関する報告はローマ教皇を通じて欧州カトリック各国の海軍関係者へと伝えられたはずだ。

信長の野望はシナ征服のみならず、インドシナやインドまで含めていた。

ローマ教皇と連携して東洋支配を狙うポルトガル・スペイン艦隊は、インドシナで織田信長率いる九鬼水軍と一戦を交わす可能性があったはずだ。
本能寺の変はその可能性を潰したという点で、ポルトガル・スペイン側とローマカトリック側にメリットを与えたといえよう。

殺人事件の犯人は、被害者が死ぬことにより最大の受益をしたものであることが多い。

信長の死により、ポルトガル・スペインとイエズス会の持つインドシナやインド方面の交易利権は保護されたことになる。

では、戦国時代に日本人が見た黒船とは一体は何か?
それは種子島に二年に渡り二度到着した船である。

最初の漂着はシナの外洋船「ジャンク」だった。
おそらく二年目も同じシナ船だろう。

船の外周や甲板、には撥水性能を高める「黒いコールタール」が塗られていたはずだ。

中国人の倭寇リーダー王直(おうちょく)は、鉄砲交易のためにポルトガル人数名と鉄砲数丁をシナ船に積み込み、難破を理由にして種子島を狙って上陸した。
歴史で言われている「ポルトガル船の種子島漂着」というのは口実のようである。




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