馬のバリ~奥州街道(4-176) [奥州街道日記]

TS393323.jpgTS393323稲刈りを終えた田
TS393324.jpgTS393324東北新幹線
TS393325.jpgTS393325奥州街道踏切

有壁宿への旧道は鉄道の踏切を越える。
近くに東北新幹線のコンクリート橋脚が見える。

さきほど「蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(ばり)する 枕もと」という芭蕉の句を引用して、奥州は馬の文化の地であることを示した。
私はここ10年ほどはこの句の「尿」を「バリ」と正しく読んでいたようだ。

司馬遼太郎の随筆「街道を往く」などからそう学んだのだと思う。

しかし、尿を「ばり」と読むことが確定したのは1997年11月に芭蕉自筆の「奥の細道」が発見されてからだという。
今からおよそ13年前のことで、案外新しい発見なのであった。

「たかが尿(シト)、されどバリ」であった。

以下に伊藤正氏の記事を引用させていただく。

『宮城県の鳴子温泉郷から北羽前街道(国道47号)を西に、山形県最上町に向かって進むと、奥の細道で名高い尿前(しとまえ)の関と封人の家の遺跡がある。

そして芭蕉の宿となった封人の家の遺跡には、後世のものではあるが、奥の細道からとった「蚤虱 馬の尿する 枕もと」の句碑があって、旅情を慰めてくれる。

この句は、あまりにも人口に膾炙されているのでいまさら多言を要しないが、句の発想は、前日に通った尿前(しとまえ)の関の地名に由来するのであろうとする見方が通説となっている。

そしてその理由は、尿前の関の「尿」という文字も、句碑に刻まれた「尿」の文字も、ともに「シト」と同音に読む慣習にしたがっていたからである。

なおそればかりではなく奥の細道には、松島や象潟や佐渡、あるいは最上川など、地名に関連する句が多いこともその慣習を助長させたのかもしれない。

まして紀行文の短い一節のこと、文字も読みも同じとすれば、先行する地名とあとにつづく句には深い関連があるとする文学論にはなるほどと納得せざるをえない。

ところで、もしこの二つの「尿」が、異なった読みであり、異なった意味であったとしたらどうなるであろうか。
地名と句の間の関係が、これまでの文学論のようにすらすらと成り立つであろうか。

近年このような疑問を誘発する新事実に遭遇した。

それは一昨年(1997)11月の芭蕉自筆の「奥の細道」の発見である。

図1は、その自筆本の影印の関連部分であるが、そこには同じ「尿」の字に、「シト」と「バリ」の異なった振り仮名が片仮名でつけられているのである。

したがって、封人の家で詠んだ句は「蚤虱 馬のバリする 枕もと」と読めというのが芭蕉の指示である。

それではこの「シト」と「バリ」の間にどのような言語学的な相違があるのだろうか。
いささか横道にそれるようだが尋ねないわけにはいかない。

このことについて、1603年、日本で布教活動をしていたイエズス会によって編纂された『日葡辞書』によると、当時、「尿」の文字を「シト」とも「バリ」とも読んで使用していたことが明らかである。

しかしながら「シト」は人間の小便、とくに子供の場合に多く用い、「バリ」は馬または動物の小便を指す言葉で、この両者の間に明確な区別があったようである。

また、同じ頃にこの地方に転封してきた佐竹氏の家臣梅津政景の元和4年(1618)の日記にも馬の小便として「バリ」の言葉が使用されている。

さらに、東北地方の方言としての「バリ」は、各家庭に農耕馬が飼育されていた近年までの日常語でもあった。 

このように近世初期から現代に至るまで、馬の小便を表わす言葉として「バリ」が使用されてきたのである。

また農家で馬とともに育った人なら誰でも知っていることであるが夜半に聞く馬の「バリ」の音のすさまじさは今日の想像を越えるものがあった。

したがって、風雨のために三日の逗留を余儀なくされた芭蕉の心を捉えたものは、まさしく枕もとで聞く馬の強烈な「バリ」の音であったに相違ない。

したがって、この句は関所の地名とは別個に、独立した思考によって生まれたとするのが至当ではあるまいか。

その証拠に前文の書きだしがなくても、この句の生命には何の影響もないのである。

なお換言すれば、この句を「馬のバリする枕もと」と読むようにとの振り仮名は、芭蕉が残した遺言なのである。

それ故に、地名がこの句の母体であるとするこれまでの短絡的な思考や文学論は、自筆本の出現を機に再考されなければならないのではないか。』
(「尿 前(しとまえ) 二 論(伊 藤 正)』より抜粋)
http://www.geocities.jp/pppppppihyghhg/Web-Ani/akita-chimei/nenpoxx/nenpo14/sitomae.htm

これに続く議論で伊藤正氏は「尿前」(しとまえ)の語源はアイヌ語の「sittok・oma・nay  =肘・ある・川  =肘のように曲がっている川」であることを類似の地名が存在する地域の川の光景の類似性から説明している。

「シト」は川や路の曲がり角を指すことばで、「オマイ」は「あるところ」という言葉だそうだ。

苫小牧(とまこまい)などについているのと同じ「おまい」と同じものが「曲がっている川」についたもののようだ。

大和族は武力で植民地支配を敷き、アイヌ族の地名の改造も行ったようだ。

「シト」という呼び名に「尿」の字を当てるところなどは、いかにも蝦夷(えみし)を見下した中華思想かぶれの大和族貴族たちの貧しい心を浮かび上がらせてくれる。

後には地名を和名に変えさせるということによって、アイヌ語の語源の存在をも消していったようだが、支配直後は地元の呼称に漢字をいい加減に当てて使用したのであろう。

こうやって、原住民の言語や地名は勝手に改ざんされていくのである。

アメリカンインディアンたちの文化が西洋人の入植者によって破壊されていった経過も似たようなものであっただろう。

「バリ」という音もアイヌ語由来ではないかという気がする。

『芭蕉が宿泊した「封人の家」とは、堺田の「封人の家(関守)」とあるから、「封人」は関所の管理責任者だったようだ。

農民を領地に囲い込んで租税を徴収するのを「柵封体制」というから、その「柵を封ずる人」という意味だろう。

『芭蕉は平泉を訪ねた後「尿前の関(しとまえのせき)」を越え、出羽の国に入ります。

“蚤虱 馬が尿する 枕元”の句で有名な堺田の「封人の家(関守)」に泊ったのは、旧暦5月15日(陽暦7月1日)のことです。

江戸を出立してから50日あまり経過していました。

結局封人の家には梅雨時の大雨にたたられ、仕方なく2泊します。

雨が上がりようやく出立した芭蕉主従は尾花沢に向かいますが、途中の山刀伐峠は土地の若者の案内でようやく越えたほどの、険しい山越えでした。』
(「観光情報-広域観光情報-堺田・封人の家~山寺~新庄」より)
http://www.mokkedano.net/kouiki/kouiki01.html

陽暦7月1日の句である。
風雨のために三日間封人の家屋に逗留を余儀なくされた芭蕉だが、早めの台風による足止めだったか、梅雨明け前の豪雨だった可能性もある。

芭蕉は二晩にわたり「馬のものすごい小便の音」、つまり東北の現地でいう「バリの音」を枕元で聞いていたのである。

眠りに着こうとするときの「バリ」の臭いと音は、蚤や虱で痒いからだには大変きつかったのではないだろうか。

寝付かれない芭蕉は、馬の尿(バリ)の音を聞きながら関所の名を考えたのではあるまいか。

その芭蕉が宿を借りた関守が管理していた関所の名前は「尿前」(しとまえ)である。

芭蕉は「尿」の字をこの地の「シト」という音に当てるのは大きな間違いだということを遠まわしに人々に伝えたかったのではないか。
おおっぴらに幕府の定めたことに逆らうことはできない時代である。

漢字の尿は大和族では「にょう」または「しと」と読むことは事実であるが、アイヌ族では馬の尿を「バリ」とよむ。

そしてアイヌ語の「シト」とは、曲がった川をあらわす美しい言葉なのである。

芭蕉直筆の奥の細道の句の「尿」の字の横に、芭蕉が「シト」と「バリ」の二通りの読み仮名を振ったのは、そういうことを後世に伝えたかったからではないだろうか。

芭蕉は伊勢国では非人(ひにん)として差別を受けていた。
殺人を犯したことで脱藩し、江戸で俳人として著名になる。

芭蕉は、差別される側の苦痛をよくわかる人だったのである。

大和族の侵略によってアイヌの文化も地名も言語も奪われていった。
芭蕉は、そういうアイヌの末裔たちの気持ちをよく理解していただろう。
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