つくもの神々~奥州街道(4-164) [奥州街道日記]
TS393278金成町津久毛
TS393279つくもの神々が住む稲田
TS393280陸橋を渡り旧道へ
沢辺氏役所前で「安重根記念碑」の案内板を見たときは「たかが安重根」という認識だった。
調べてみると実に多くの事実が出てきて「されど安重根」という気分になっている。
国道4号線から左手に旧道が分かれている。
陸橋を渡って旧道へと向かう。
陸橋の上から金成津久毛(つくも)の豊かな稲田が見渡せる。
「つくも」という音は「九十九」という漢字にも当てられることがある。
『九十九王子(くじゅうくおうじ)とは、熊野古道沿いに在する神社のうち、主に12世紀から13世紀にかけて、皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社をいい、参詣者の守護が祈願された。
したがって、その分布は紀伊路・中辺路の沿道に限られる。
中略。
なお、「九十九王子」の読み方には、「きゅうじゅうきゅうおうじ」(主に大阪地方)、「つくもおうじ」といった読み方もあるが、熊野地方で一般的なのは「くじゅうくおうじ」であり、本記事もそれに従っている。』
(九十九王子(Wikipedia)より)
私には「つくも」の音は「いずも」を連想させてくれるように感じる。
調べてみると大和朝廷成立以前の出雲に「つくも(九十九)の神々」がいることがわかった。
「古代出雲王国の謎: 邪馬台国以前に存在した“巨大宗教国家” 著者: 武光誠」より一部抜粋する。
http://books.google.co.jp/
『さらに、出雲では「出雲国風土記」にみえない山川の神々が祀られていた。
「出雲国風土記」に、天武2年(673)に語猪麿(かたりのいまろ)の娘がサメに殺された話がある。
このとき猪麿は、
「天神(あまつかみ)千五百万はしら、地神(くにつかみ)千五百万はしら、ならびに当国にしずまります三百九十九社、また海若(わたつみ)たち」に娘の仇を討ってくれるように祈ったとある。』(抜粋終わり)
神は天と地と海とこの国にいるということだ。
この国とは出雲の国である。
九十九(つくも)とは、「神々が沢山いる」という意味であろう。
その後出雲国は大和朝廷の支配下に組み込まれた。
八百万(やおよろず)の神々という言い方がされるようになる。
出雲国にいたのは、1500万+1500万+399+1=3000万400の神々だった。
大和朝廷政権になってからは、神々は800万にリストラされているようだ。
さびしい思いをしていた神々が出雲地方には沢山いたことだろう。
神在月(かみありづき)を1年に一回だけ出雲に許したのは、寂しさを紛らわすためだったのかもしれない。
その月は大和朝廷側は「神無月(かんなづき)」となる。
『旧暦十月は、全国の神々が出雲に集まり不在になることから”神無月“と呼ばれる。
その理由はよく分からないが、北は下北半島から南は鹿児島県の戸からトカラ列島に至る地域で、十月には神様が出雲へ集まるという伝承が残されているのである。
従って出雲では十月は神在月となる。
この間、朝山神社(出雲市)、神魂神社(松江市)、出雲大社(大社町)、佐太神社(鹿島町)、万九千神社(斐川町)、多賀神社(松江市)などでは、全国から集まった八百万の神を送迎するため、神在祭と呼ばれる様々な神事をとりおこなう。
その始まりは、旧暦十月十日の夜七時。
神々はいずれも海から来るため、出雲大社では”国譲りの聖地“稲佐の浜に斎揚を特設し、多くの信者や神宮が神々の依代(神々の現われる場所・もの)となる榊の大枝を立てて出迎える。そして、出雲大社本殿の両脇にある十九社に入る。
この神事を神迎祭という。その後、十九社に宿を取った神々は、神在祭の七日間を過ごす。
この期間を出雲の人たちは”お忌みさん“と呼び、歌舞音曲を慎むばかりか、大声を出したり、社殿の近くで話をしたりすることを遠慮するのが習わしだった。
神社の周辺は、たくさんの神々が集う神聖な場所だから、その清浄さを汚すことがあってはならないというわけだ。
こうして行なわれた出雲大社の神在祭は、十月十七日の一回日の「神等去出祭」の神事と、十月二十六日の二回目の「神等去出祭」の神事をもって終わりを告げる。』
(「出雲神話の世界」より)
http://www.tokusen.info/kankou/bunka/sinwa/
「この期間を出雲の人たちは”お忌みさん“と呼ぶ」という下りには死者を弔う雰囲気が漂う。
大和朝廷軍によって殺された豪族たち(=神々)の慰霊祭の意味があるのではないだろうか。
殺された神々の霊まで大和朝廷に連れ去られたということを暗示している。
しかし、年に一度だけ里帰りさせるという約束だけは今でも守っている。
TS393279つくもの神々が住む稲田
TS393280陸橋を渡り旧道へ
沢辺氏役所前で「安重根記念碑」の案内板を見たときは「たかが安重根」という認識だった。
調べてみると実に多くの事実が出てきて「されど安重根」という気分になっている。
国道4号線から左手に旧道が分かれている。
陸橋を渡って旧道へと向かう。
陸橋の上から金成津久毛(つくも)の豊かな稲田が見渡せる。
「つくも」という音は「九十九」という漢字にも当てられることがある。
『九十九王子(くじゅうくおうじ)とは、熊野古道沿いに在する神社のうち、主に12世紀から13世紀にかけて、皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社をいい、参詣者の守護が祈願された。
したがって、その分布は紀伊路・中辺路の沿道に限られる。
中略。
なお、「九十九王子」の読み方には、「きゅうじゅうきゅうおうじ」(主に大阪地方)、「つくもおうじ」といった読み方もあるが、熊野地方で一般的なのは「くじゅうくおうじ」であり、本記事もそれに従っている。』
(九十九王子(Wikipedia)より)
私には「つくも」の音は「いずも」を連想させてくれるように感じる。
調べてみると大和朝廷成立以前の出雲に「つくも(九十九)の神々」がいることがわかった。
「古代出雲王国の謎: 邪馬台国以前に存在した“巨大宗教国家” 著者: 武光誠」より一部抜粋する。
http://books.google.co.jp/
『さらに、出雲では「出雲国風土記」にみえない山川の神々が祀られていた。
「出雲国風土記」に、天武2年(673)に語猪麿(かたりのいまろ)の娘がサメに殺された話がある。
このとき猪麿は、
「天神(あまつかみ)千五百万はしら、地神(くにつかみ)千五百万はしら、ならびに当国にしずまります三百九十九社、また海若(わたつみ)たち」に娘の仇を討ってくれるように祈ったとある。』(抜粋終わり)
神は天と地と海とこの国にいるということだ。
この国とは出雲の国である。
九十九(つくも)とは、「神々が沢山いる」という意味であろう。
その後出雲国は大和朝廷の支配下に組み込まれた。
八百万(やおよろず)の神々という言い方がされるようになる。
出雲国にいたのは、1500万+1500万+399+1=3000万400の神々だった。
大和朝廷政権になってからは、神々は800万にリストラされているようだ。
さびしい思いをしていた神々が出雲地方には沢山いたことだろう。
神在月(かみありづき)を1年に一回だけ出雲に許したのは、寂しさを紛らわすためだったのかもしれない。
その月は大和朝廷側は「神無月(かんなづき)」となる。
『旧暦十月は、全国の神々が出雲に集まり不在になることから”神無月“と呼ばれる。
その理由はよく分からないが、北は下北半島から南は鹿児島県の戸からトカラ列島に至る地域で、十月には神様が出雲へ集まるという伝承が残されているのである。
従って出雲では十月は神在月となる。
この間、朝山神社(出雲市)、神魂神社(松江市)、出雲大社(大社町)、佐太神社(鹿島町)、万九千神社(斐川町)、多賀神社(松江市)などでは、全国から集まった八百万の神を送迎するため、神在祭と呼ばれる様々な神事をとりおこなう。
その始まりは、旧暦十月十日の夜七時。
神々はいずれも海から来るため、出雲大社では”国譲りの聖地“稲佐の浜に斎揚を特設し、多くの信者や神宮が神々の依代(神々の現われる場所・もの)となる榊の大枝を立てて出迎える。そして、出雲大社本殿の両脇にある十九社に入る。
この神事を神迎祭という。その後、十九社に宿を取った神々は、神在祭の七日間を過ごす。
この期間を出雲の人たちは”お忌みさん“と呼び、歌舞音曲を慎むばかりか、大声を出したり、社殿の近くで話をしたりすることを遠慮するのが習わしだった。
神社の周辺は、たくさんの神々が集う神聖な場所だから、その清浄さを汚すことがあってはならないというわけだ。
こうして行なわれた出雲大社の神在祭は、十月十七日の一回日の「神等去出祭」の神事と、十月二十六日の二回目の「神等去出祭」の神事をもって終わりを告げる。』
(「出雲神話の世界」より)
http://www.tokusen.info/kankou/bunka/sinwa/
「この期間を出雲の人たちは”お忌みさん“と呼ぶ」という下りには死者を弔う雰囲気が漂う。
大和朝廷軍によって殺された豪族たち(=神々)の慰霊祭の意味があるのではないだろうか。
殺された神々の霊まで大和朝廷に連れ去られたということを暗示している。
しかし、年に一度だけ里帰りさせるという約束だけは今でも守っている。
2010-07-19 20:38
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