実在していた「沢辺琢磨」 [奥州街道日記]

sawabetakuma.jpg坂本龍馬の従兄弟「沢辺琢磨」(沢辺琢磨(Wikipedia)より引用)

先の記事で私はこう書いてしまった。

『(坂本龍馬と沢辺琢磨は)本当の従兄弟だったかどうか?

幕末の侍は偽名を沢山使っていたからだ。

「沢辺琢磨」という名前からしてとても臭う。
龍馬臭さである。

つまり、人を小馬鹿にしたようなユーモアを感じる。

私はさっき「沢辺」市役所前で休憩していて安重根顕彰碑の案内板を発見したのである。
その地名を使ったのだろう。』

書いてしまったものは消せない。

この勝手な思い込みが気になり調べてみると、琢磨は旧姓山本数馬という龍馬の実の従兄弟だった。

父方において龍馬と血がつながっている人物である。

または母方は武市瑞山(半平太)の妻と血でつながっている。
義理の関係になるが武智半平太とも従兄弟の関係になる。

沢辺というここの地名自体が琢磨に由来している可能性さえある。

長くなるが、「パウロ沢辺」の生涯を抜粋する。

『沢辺 琢磨(さわべ たくま、天保5年1月5日(1834年2月13日)~大正2年(1913年)6月25日)は日本ハリストス正教会初の正教徒(ハリスチャニン=クリスチャン)にして最初の日本人司祭である。

聖名(洗礼名)はパウェル(パウロ)。
沢辺姓を名乗る前は山本琢磨。
(*幼名は山本数馬)

生涯 出生から函館まで
天保6年(1835年)、土佐国土佐郡潮江村(現在の高知市)に土佐藩の郷士である山本代七の長男として生まれる。
幼名数馬。

代七の弟・八平は同じ土佐郷士の坂本家に婿養子として入り坂本直足と改名、次男に坂本龍馬をもうけており龍馬とは血縁及び実質上の従兄弟同士である。
また琢磨の母は武市瑞山(半平太)の妻である富子の叔母であった。

武術に優れ江戸に出て三大道場の一つといわれた鏡心明智流の桃井道場でその腕を一層磨き、師範代を務めるまでになる。

ところがある晩、酒を飲んでの帰り道に拾った金時計を酔った勢いで一緒にいた友人と共謀し時計屋に売ってしまい直ちにそれが不法なものであることが発覚して窮地に追い込まれる。

訴追を逃れるために龍馬や半平太の助けを得て江戸を脱出。
東北各地を流れ回った末、新潟にたどり着いたところで出会った前島密に箱館(現・函館市)に行くことを勧められ渡道し函館に落ち着く。

函館・正教の洗礼
函館では持ち前の剣術の腕が功をなし、それがきっかけとなって道場を開くと町の名士たちとも親交を持つようになる。

そんな中で知り合った箱館神明宮(現・山上大神宮)宮司の沢辺悌之助に請われて娘の婿養子となり、以後、沢辺姓を名乗る。

函館時代の琢磨について、新島七五三太(新島襄)が米国へ密航するときの手助けをしたというエピソードが伝わっている。

当時、既に開港していた函館にはロシア帝国の領事館があり附属聖堂の管轄司祭として来日していたロシア正教会のニコライ神父(イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン、後の亜使徒聖ニコライ大主教)は日本宣教の機会を窺いつつ日本の古典文学や歴史を研究していた。

領事館員の中に子弟に日本の武術を学ばせたいという者がいてその指南役となり領事館に出入りするようになった琢磨もニコライを知ることとなったが、攘夷論者だった琢磨はニコライの日本研究に対して日本侵略に向けた情報収集との疑念を抱きニコライをロシアから遣わされた密偵だと思うようになった。

そして殺害をも辞さぬ覚悟でもって大刀を腰に帯びニコライを訪問、来日や日本研究の意図を詰問した。

対するニコライは琢磨の問いに理路整然と答えるとともに、琢磨に対してハリストス正教の教えを知っているかと質問した。

知らぬと答えた琢磨に「ハリストス正教が如何なるものかを知ってから正邪を判断するのでも遅くはなかろう」と諭した。

確かにそれも一理あると考えた琢磨は以後ニコライの下へ日参して教えを学んでいくうちに心服し、後に友人の医師酒井篤礼らをも誘って教理を学んだ。

そして、ついにはまだキリスト教禁制下の慶応4年4月2日(1868年4月24日)、酒井や浦野太蔵とともに秘密裡にニコライより聖洗機密(洗礼)を受け日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)となった。

聖名(洗礼名)は初代教会時代にキリスト教を迫害中、劇的な回心を経験して伝道者となりキリスト教の世界宗教化への道を開いた後に致命した聖使徒パウェル(パウロ)を与えられた。

受洗後も琢磨はしばらくの間、神明社宮司の座に留まっていた。

祭祀の時には祝詞を漢語訳聖書の聖句に置き換えてカムフラージュをしたりもしていたが、やがてハリストス正教に改宗したことを公言し神明社を去る。

禁教下において神道の祭司職が邪教へ改宗したということもあって、琢磨一家に対する迫害は非常に厳しく生活は困窮を極めた。

さらには精神的に参ってしまった妻が自宅に放火をするという事件も起きた。

その後、琢磨は妻子を残して函館を一時脱出し布教しながら東北地方を南下するが途中で捕縛・投獄され、後に釈放されて函館に戻った。
以後の伝道中、仙台にて再び捕縛されるが明治政府によって禁教が解かれると自由の身となり以前にも増して伝道に力を入れた。

司祭として
やがて教勢が伸び、日本人神品(聖職者)の必要性が高まってくる。

ニコライは明治8年(1875年)7月に東京で第1回の公会議を招集し、その中で司祭の選立が討議された。

出席議員による選挙で琢磨と酒井、他2名が選ばれたが酒井ら3名は推薦を固辞した。

話し合いの結果、琢磨を司祭候補に、酒井を輔祭候補とすることに決定した。
そして、同年の末に函館の聖堂にてこの日のために来日した東シベリアのパウェル主教の按手によって琢磨は日本人初の司祭に叙聖された(酒井も輔祭に叙聖された)。

わざわざカムチャツカからパウェル主教を招請したのは、当時ニコライはまだ掌院(司祭の位の一つ)であって、主教ではなく、神品機密執行の権能がなかったためである。

はれて司祭となった琢磨は任地や各地の教会で聖体礼儀を司祷し、また洗礼機密を授けて多くのハリスチャニンを育てた。
後に長司祭(ロシア正教会の正式な位階である長司祭(archpriest)とは異なり、主教区内において主教の権限で授与される称号。
今日では「管長」という訳語があてられている)に昇叙された。

東京復活大聖堂(通称:ニコライ堂)建設に当たっては師のニコライと対立したこともあった。
ニコライ堂建設にあたってニコライと対立したのは、ニコライ堂を建設する資金を困窮する神品・伝教者の生活費に回すべきだとしたためであった。

ニコライと沢辺の関係は一時緊張したものの、後に和解。

1884年3月に起工した後、沢辺は建築中の現場で、宮城(皇居)を見下ろす事に建設を妨害しようとする右翼への対応をした[2]。

建設中途の1889年頃からは尖塔が宮城を見下ろす形になり不敬であるとの言説が流布するという反響があったが[3]、右翼による妨害もその一環であった[2]。

正教によって温和な精神にはなっているが、青壮年時代の武道の精神が容貌に表れた琢磨の姿が建設現場に現れると、右翼はいつの間にか姿を消していたと伝えられている[2]。

一貫して神に奉献する道を歩み、福音宣教に生涯を捧げた。
明治45年(1912年)にニコライ大主教が永眠すると琢磨は師の後を追うように翌大正2年(1913年)6月25日、東京にあった四谷洗礼教会にて長男で司祭のアレキセイ・沢辺悌太郎神父に看取られながら永眠。78歳。

最後の言葉は「聖堂…」であったと沢辺悌太郎により伝えられている(「遺体を聖堂に運べ」という意味であったと悌太郎は解釈した)[4]。

埋葬式はニコライ堂にてセルギイ(チホーミロフ)府主教司祷で盛大に挙行。
青山霊園に埋葬される。』(沢辺琢磨(Wikipedia)より)

カトリックとは異なるキリスト教会派のハリストス正教会について以下に示す。

『日本ハリストス正教会(せいきょうかい)は、キリスト教の教会。

自治独立が認められている正教会所属教会のひとつである。

ハリストスは「キリスト」の意(こうした独自の表記・翻訳については後述する)。英語表記は"Orthodox Church in Japan"である(略号はOCJ)[2]。

通称・略称として日本正教会とも呼ばれる。

1970年以前、自治正教会となっていなかったころにも、日本の正教会は日本人正教徒およびロシア人正教徒から「日本正教会」と呼ばれていた[3]。

正教会は一カ国に一つの教会組織を置くことが原則だが(日本正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉しているわけでは無く、同じ信仰を有している[4]。

正教会の教義や、全正教会に共通する特徴については「正教会」を参照

19世紀後半(明治時代)に、ロシア正教会の修道司祭聖ニコライ(のち初代日本大主教)によって正教の教えがもたらされ、これがその後の日本ハリストス正教会の設立につながった。

聖ニコライによって建立されたニコライ堂(東京復活大聖堂)、函館の復活聖堂、豊橋の聖使徒福音記者マトフェイ聖堂は、国の重要文化財。


中略。

だがニコライが個人的な信頼を日本政府内で得ていようと、そして日本正教会が日本政府と協力してロシア人捕虜のケアを行おうと、反露的な機運は日本正教会にも向けられていった。

日比谷焼打事件の際には東京復活大聖堂とその関連施設も暴徒に襲撃されるところであり、あわや火をかけられるところであった。
この時は戒厳令の下に出動した近衛兵の護衛により教会の各施設も難を逃れた。

こうした逆境にもかかわらず、1911年、ニコライが大主教に昇叙された年には、日本正教会の教勢は教会数265箇所、信徒数31,984名、神品数41名、聖歌隊指揮者15名、伝教者121名に達した。これは当時の日本にあってカトリック教会に次ぐ規模であった。

明治最後の年、1912年に大主教ニコライは永眠、76歳であった。

この時、明治天皇から恩賜の花輪が与えられた。

外国人宣教師の葬儀に際して時の天皇から花輪が与えられるのは異例のことであった。』(日本ハリストス正教会(Wikipedia)より)

「近衛兵の護衛により教会の各施設も難を逃れた」とある。

近衛兵とは天皇の親衛隊である。
藤原家のうち、五摂家だけが摂関政治に関与できるとされるが、その中に近衛家が含まれる。

つまり、明治天皇自ら兵隊を出して正教会を防衛したということだ。

明治維新が一体どういう革命であったのかを暗示しているように私には思われる。

また、坂本龍馬の従兄弟が日本最初のハリストス正教会の日本人司祭であったことも象徴的な出来事である。

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