いちご白書をもう一度 [つれづれ日記]

「なぜきれいに辞めないのか?」

その問いについて考えている。
実際ある青年に私が受けた質問である。
私は定年退職を前にして管理職のための労働組合で活動しているおじさんである。

いちご白書はアメリカの学生運動を題材にして作った映画である。
私と同じ世代のアメリカ人青年が主人公である。

いちごは赤いので、極左共産主義という意味で使われたという説もあるが、甘ずっぱい青春の記憶と言うイメージも私は感じている。

私は戦後5年を過ぎて、漸く日本人の生活に落ち着きが出始めた頃に鉄道員夫婦の家庭に長男として生まれた。
昭和25年の生まれである。

アメリカは戦勝国であるが、敗戦国日本と同じく、戦後の新しい政治方針を固めつつある時代だった。

世界は西側資本主義と、ソ連共産党、中国共産党に2分されていた。
どちらのイデオロギーが勝利するか、戦いが始まったばかりだった。

日本の学生運動にもソ連共産党や中国共産党或いは西側の社会主義政党から送り込まれた資金が学生運動を煽った面があっただろう。

学生の中には極左活動家と呼ばれるものがいた。
おそらくアメリカにも送り込まれていただろう。
しかし、映画は美化できるので、いちご白書には極左活動家の姿は見えない。
普通の学生運動である。

私たち一般学生もなんのために学生運動をしているか、よくわからなかった。
18才で受験戦争をくぐりぬけて漸く大学に入ると、半年間授業は停止状態で、学内にはバリケードが築かれていた。
大学管理法案反対というキャッチフレーズに私たちが呼応したのは確かであった。
年間6千円の授業料が2倍も3倍にもなるという法律なので、だから反対だった。
一般学生には、この国をどういう方向に持っていけばいいかなどという思考能力はなかった。
資本主義か、反資本主義か、或いは共産主義か、などはあまり考えていなかった。

学生運動の高まりに対して、政府は警察力による弾圧を加えてくるようになった。
東大安田講堂事件はその火蓋を切った。
私のいたK大学も、その翌年に機動隊による突入、学生主導者逮捕に至り、学生運動は下火になった。

機動隊が大学に突入する日、私は大学正門前のバス停でS島行きのバスを待っていた。
その私の足元に、大学の本部建物屋上から機動隊めがけて投げてくる石ころがいくつか転がってきた。

タオルで顔の下半分を隠し、ヘルメットを被った学生が10名程度屋上で投石し、最後の抵抗を試みていた。その顔に消防車から放水がかけられていた。

私はノンポリ学生であった。
クラス一斉の学生デモがある場合だけ、お付き合いでデモ隊の中に入ったことはあった。
その程度の学生運動しかしていなかった。
バスに乗ってS島のヨット部合宿所へ入り1週間の合宿を行う。

下宿先に帰ってみると、既に大学のバリケードは取り除かれ、授業がぼちぼち再開されはじめていた。

それが1年生の秋のことである。

大人の世界は、学生運動を極左活動家による共産主義だと判定し、力でつぶしたのである。
それ以降、政府に反対するものはいなくなった。

4年生で卒業を前にして、私は保守的な製鉄会社に就職することにした。
それも教授が「ここがまだ空いているから、そこへ行け」と言ったからで、自分から鉄を作りたいという夢があったからではなかった。
会社が安定しているなら、自分の生活も安定するだろう程度しか考えていなかった。

髪を切り、服装を社会人らしくして面接へ向かった。

その後日本は産業立国の道へと進んでいった。
一次はGDP世界2位までなり、その道を選択したことは正しかったようにも見えた。

しかし、アメリカの支配下で再生した日本は、アメリカの政策に追従する選択しかしてこなかった。
アメリカ的資本主義が崩壊すると、日本の政治社会も崩壊しかかってきた。

平成8年のバブル崩壊のときにその兆しが現れてきた。
私はその年からリストラの波に翻弄され始めた。
以来12年間の長きに渡って出向社員の身分のままである。
片道切符の出向である。

最近になって、あの学生の頃、まじめに学生運動をしていた若者もいたのではなかったかと思っている。

極左活動家だけではなく、私のようなノンポリでもなく、まじめに社会のあり方と経済の進め方について議論し夢を追いかけていた学生たちも沢山いたはずである。

運動の挫折で大学を中退し、ガスボンベ担ぎの労働者になっていった親友もいる。
労働者の気持ちをわからなければ、本当の運動などできないというのが彼の中退理由だった。

貧しい生活の中にこれから入っていくだろう友人の背中を見送ったことを覚えている。
私は彼とは正反対に、学生時代を楽しみ、卒業のための単位取得にまい進していった。

あのとき、政府や大人の社会が学生たちとまじめにこれからの日本の針路を話し合っていたら、いくらか違った国にすることができたのではないかと思う。

極左がいるから学生運動は極左だと決め付け、権力者側の都合がよくなる方向へと決着していった。

ソウではなく、極左は法に従って逮捕するが、そうではない学生の言い分は場所を変えて真摯に話し合う機会を設ける、そういう大人の姿勢があってよかったのではないだろうか?

既に当時もいくつかの社会的問題はあっただろうし、年金制度なども含めて若者の意見を聞き入れておけば、もう少しましな国になって行ったのではないだろうか?

私はあと2年足らずで定年退職を迎える。

世間一般よりも恵まれたサラリーマン生活を送り、退職金を手にして去っていくだろう。
その前にすることがあるのではないか?
去ってから会社を良くすることなど不可能である。

労働運動を管理職がすれば、昇進や給与・退職金で不利になるのではないか?
皆が感じることは私も当然感じていた。
それでも今やらなければ会社をよくする活動などできない。
退職していくら吼えても、それは外部の雑音に過ぎない。
会社は聞く耳を持たないだろう。

私がきれいに去れるような、すばらしい会社といえるだろうか?
そうであるなら私の仕事などは必要ないだろう。
後輩たちにすべてを任せておけばよい。

私が見る限り、会社は私物化されつつある。
製鉄会社やその関連会社300社の役員の行動や姿勢を見る限り、「保身」が行動を支配しているように見える。

社内に問題があっても見て見ぬ振りをする。
あの学生時代と同じ行動原理でおじさんたちは今も動いている。

やはり「これが問題ですよ」と誰かが指摘してあげなければ、よくなるきっかけさえ生まれない。

私は学生運動をノンポリで過ごした。
同じ学生だった仲間が数十人逮捕され、逮捕を免れた友人が中退していく姿を、私はただ見送っただけである。

今経営者として会社を支配しているおじさんたちは、ほとんどが私と同じように「見送った側にいた学生」が年老いたものである。

保身を考えながら、問題を見て見ぬ振りして会社を去れば、学生時代と同じことの繰り返しになる。

若い頃の私たちのそういう態度が、今の日本を作ることになったのだ。

問題があれば徹底的に当事者間で話し合う。
しかも対等な立場でまじめに話し合うことが大事である。

人事権を掌握する人物と会社の中で対等に話しあうことは、相手に人徳がない限り難しい。
とくに「保身」を信条として生きている役員との対話はとても困難である。

労働組合を作り、労使対等な場で問題を提起し、改善案を検討する。
最も対等な対話の機会が作れる。
戦後の日本国憲法が日本人に与えた優れたシステムでもある。

私は還暦を前にして、学生時代に遣り残してきた「いちご白書」を、もう一度やろうとしているように感じている。

昭和50年代だったと思うが、ユーミンは「いちご白書をもう一度」という歌を作詞作曲した。

彼女も同じ世代なのだろう。

あの頃の日本の未来を語り合った若者たちが、皆髪を切り、就職し、まじめな勤労者になっていったが、本当にそれでよかったのだろうか?
もう一度考えなおしましょう、という歌である。


「『いちご白書』をもう一度は、1975年8月にフォーク・グループのバンバンがリリースしたシングルである。バンバンとしては唯一のオリコンでの1位を獲得し、1975年の年間第13位に輝いた。
作詞・作曲は荒井由実(現・松任谷由実。ユーミン)である。

卒業を間近にして、過ぎ去った学生時代を思い出すという内容の曲である。
1998年には鈴木真仁が、2003年にはユーミン自身もセルフカバーアルバムでカバーしている。
歌詞に歌われている『いちご白書』とは、1970年に公開されたアメリカ映画のこと。
なお作詞・作曲の荒井由実もこの曲の大ヒットにより注目され、『あの日にかえりたい』が1位を獲得している。」(以上はwikipediaより抜粋)

このサイトに詩が掲載されており、曲も聞けるようである。
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/ichigohakusyowo_mou_ichido.htm
(「いちご白書」は、キム・ダービーが主演女優を務めた1970年のアメリカ映画)

作詞
 荒井 由実   

いつか君と行った 映画がまた来る
  授業を抜け出して 二人で出かけた
  哀しい場面では 涙ぐんでた
  素直な横顔が 今も恋しい

  雨に破れかけた 街角のポスターに
  過ぎ去った昔が 鮮やかによみがえる
  
  君も見るだろうか 「いちご白書」を
  二人だけのメモリー どこかでもう一度
  僕は無精ヒゲと 髪を伸ばして
  学生集会へも 時々出かけた

  就職が決まって 髪を切って来た時
  もう若くないさと 君に言い訳したね
  
  君も見るだろうか 「いちご白書」を
  二人だけのメモリー どこかでもう一度
  二人だけのメモリー どこかでもう一度

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としぼー

以前から徒歩での全国行脚のブログを拝見させていただきコメントも書かせていただきました。このブログにも以前立ち寄ることができておりました。同感してもおりました。私ももう一度考え直すべきと存じております。会社という組織の中で、目に余るた多々のことについて押し黙り残された1年半をこのまま過ごして良いのだろうかという疑念がずっとあり、この度、戦うことを決めました。折り重なる人間関係と上下の壁。どのように切り崩して正等に導くか悩みました。意見を同じくする同志にもやっと巡りあえました。上場会社の子会社たる我が社のトップはいわば天下りです。この戦いは本体をも巻き込むことにならざるを得ません。しかし、あまりにも目に余るあれこれを見過ごして後輩に苦しみを残すわけには参らないと存じております。今回、行動するに当たって、あなた様の、この文が励みとなっておりました。この件でようやくコメントさせていただくことができるようになったと、今ではホッとしております。貴重な文に対しまして御礼を申し上げたく一筆啓上とさせていただきました。私のことにつきましては、以後に書くこととさせていただきます。失礼致しました。
by としぼー (2010-09-26 22:07) 

チャレンジ

としぼうさん!返事が遅くなってごめんなさい。
街道歩き日記の源太郎です。

このサイトに移行してから、使い方に不慣れでコメントに返事を書くのを忘れていました。
そのためにコメント書き込みも少なく気にすることなく月日が過ぎました。

今日コメントの存在に気づき、読んでまた驚きました。としぼうさんの決心には敬意を表します。

ただ、なかなか敵の組織防衛能力は高く、改心させるのは容易ではありません。それでも、ドンキホーテになってでもやりたい、結果は自己責任で引き取る!

そういうお覚悟であるならば、外野席からやんやと喝采し応援させていただきます。

退職後の人生選択において、としぼうさんが苦労された何ヶ月か何年間がきっと糧になるはずです。

金銭だけが人生の糧ではありません。
金は家に住み飯が食えるだけあれば十分です。
幸福感は金では買えませんね。

よい人生をお迎えされるよう、またきっとそうなるようにお祈りしています。
源 太郎拝
by チャレンジ (2011-01-03 23:32) 

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